家族で買い物 2005年5月3日(火)

出来事

5月3日、憲法記念日。休みを取って家族3人で橋本市の彩の台にできたオーストリート等に買い物に行った。山を切り開いて開発した高台にある彩の台は、段差がどうしてもできるので、集積されたお店も4つほどのエリアに分かれ、それぞれにかなり大きな駐車場があるという作りになっている。オークワのあるエリアから、モスバーガー(お昼はここで食べました)に行こうと思ったら、少し距離があり、歩いていくと時間がかかるので車で移動した。相当不便だ。
ご飯を食べるところも限られていて、うどん屋さん(名前を失念した)、焼き肉屋さん(牛角)、モスバーガー、ファミリーレストラン(ジョイフル)ぐらいしかない。大きなレストランだと思っていったら、なんとパチンコ屋さんだった。この一角にもカレー屋さんなどがあるみたいだったが、飲食店は少なく感じた。オーストリートの中にケンタッキーフライドチキンがあったが、食べ物屋さんがだだっ広いエリアにこれだけしかないと、かなり不便を感じる。
住宅用地の近くに商業スペースを確保して、住居と商業スペースを接近させたことによって、便利な街、彩の台を演出して住宅販売を促進しようというのが戦略だと思うが、最初からパチンコ屋さんとゲームセンターを取り込んでしまったのには、違和感を感じた。
静かな住宅用地を買い求めてきたのに、目と鼻の先にゲームセンターとパチンコ屋があるのでは、子育ての心配事が増えるかも知れない。
せっかく、住居と商業スペースを接近させたのだから、住民の希望やニーズを聞いていっしょにまちづくりを考えたらよかったのにと思ってしまった。
昼食は、2時30分頃から、結局娘の希望を生かしてモスバーガーにした。夫婦は、牛角をねらっていたのだが。休日は娘の希望を聞こうということになった。
さて。話を今日の朝にもどそう。
朝、7時30分に目が覚めた。「戦場のピアニスト」を今日こそ見ようと思ってDVDをセットした。3分の2ほど見たところで、映像が止まり始めた。静止画になって動かなくなったら、信号の読みとりができなくなった証拠だ。ヘッドクリーニングをしながら何度か挑戦したが、事態は改善しなかった。仕方がないので、PowerBookにDVDを入れて、パソコンで最後まで見た。
ナチスドイツがポーランドに侵攻し、ユダヤ人を迫害していく過程が丹念に描かれていた。ナチスドイツは、最初から極端なことをいきなりしたわけではない。
最初は、金銭の取得の制限、次は腕章の強要(ユダヤ人であることを一目でわかるように印を付けたということ)、ゲットーと呼ばれるユダヤ人居住区への強制疎開、そのエリアへのバリケードの建築(これは強制疎開後直ちにおこなわれた)、労働証明書の発行(ないものは即収容所へ)、強制収容所(アウシュビッツだと思う)への大量連行。この強制連行は、大量の死を意味した。残ったユダヤ人は強制労働に従事させられた。
ここまで事態が進むと、質問をしただけで銃殺されるような状況だった。
多くのポーランド人は、ユダヤ人に対する迫害を受け入れ(従わなかったら殺された)、ドイツ軍に協力した。
侵略戦争をおこなった国は、他国民に対していきなり、強権をむき出しにしないと思う。その最大の理由は、あまり大きな抵抗なしに、支配を強めたいからだ。
ユダヤ人への金銭的な制限から強制収容にいきつくのには、それなりの歴史がある。この歴史は、一歩一歩ドイツが侵略者の本質をむき出しにしていく過程でもあった。
おそらく第2次世界大戦に至るまでに、日本が引き起こした侵略とアジア諸国の植民地化でも同じようなプロセスをたどったのではなかろうか。人間と人間の交流だから、侵略するものとされるものの間、植民地で支配するものとされるものとの間にも部分的には、人間的な交流も生まれたに違いない。
朝鮮半島の35年間。
台湾の50年間。
これが日本による植民地の歴史だ。
35年間、50年間という時間の中で、日本人は、毎日のように朝鮮人、中国人を殺しまくっていたわけではない。この2つの土地に、生活者として根を下ろして、現地の人間を使っていたのだ。しかし、この植民地化の中で生まれた交流や信頼関係によって、日本人には優しい人もいたという風にはいえないと思う。
自由をゆっくりと制限し、絶対服従を強いるプロセスの中で生まれた心の交流は、支配する側の戦略的な配慮の中に咲いた小さな花のように感じる。
そして、
この小さな花は、戦争の激化にともなって、踏みにじられていったのではなかろうか。
戦前の日本国内における自由の制限も、一気におこなわれたわけではない。戦争が激化するにつれ、国民の自由は次第に制限され、自由に小説を書くことも、作曲や作詞をおこなうことも、論文を世に問うこともできなくなっていった。
次第に自由が制限され、国家の権力が大きくなるプロセスの中で、果たして私は、自分の良心に従って信じることを貫くことができるだろうか。くじけてしまうのではなかろうか。
「戦場のピアニスト」は、自由が狭められ、奪われていく過程の中で、自分はどう生きたらいいのだろうかということを突きつけてくる映画だった。
「憲法9条を守ろう」
「そんなことをいうのは共産党だ」
実際、こんな風にいった方がいたし、
こんな風に問い返した人がいた。
つい最近の話だ。
「共産党だ」という指摘は、多くの人を引き離す。
共産党というレッテルを貼るだけで運動がしぼんだりする。21世紀の最初、和歌山県では、このレッテル貼りにも一定の効果があがる。まだ。
体制に順応して生きることこそ、一番安全な生き方なのかも知れない。
家族の平穏を守るためには、「憲法9条を変えよう」といった方がいいのかも知れない。
「しかたないじゃないか。命には替えられない。家族を迫害に巻き込まないためだ」
これが信念を曲げるときの理由だ。
戦前の日本は、まさにこういう時代だった。
平和を守るためには勇気と信念が必要な時代になりつつある。
「憲法9条を守るなどというのは共産党だ」
こういうレッテル貼りに、立ち向かっていかなければならない時代を作り出してはならない。
憲法記念日。日本国憲法は、政府と自民党・民主党・公明党によって傷つけられている。
憲法が永久に守ると国民に約束した基本的人権は今どうなっているのか。
自民党や政府は、有事の時には、私権の制限もあり得るという法律を作った。
盗聴法という法律も日本にある。
国民保護法制という名の総動員法も施行され、自治体は体制を作らされる。
「一旦緩急あれば義勇公に報じ」という教育勅語の言葉と有事の際の私権の制限に、果たしてどれだけの隔たりがあるのだろうか。
マスコミは有事法制の流れに対し、ほとんど批判の目を向けない。
国民があまり知らないところで、
ビラをまいただけで、逮捕される時代が始まった。
権力を握っている勢力は、時代の舵を大きく右に切ろうとしている。
しかし。
この流れに抗する闘いがある。
「悲劇を繰り返させないために、9条を守ろう」
全国各地に9条の会が発足している。
平和と憲法を守る力は強い。
改憲と憲法を守ろうとする動きが、正面からぶつかり合っている時代。
それが2005年5月3日という現在。
「歌声よ、起これ」
「平和は眠りを許さない」


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

出来事DVD

Posted by 東芝 弘明