対立をあおって、情報の多い方を勝たせる

雑感,政治

インターネットの議論は、ネットエチケットという言葉を忘れさせるかのような様相になっている。日本学術会議の議論は、多くの人が関わって議論百出している。それなのに105人の推薦人の内、6人がなぜ任命から外されたのか、この肝心なところが分からない。
西日本新聞の記事を引用しよう。10月6日の記事で、菅首相が語ったことをていねいに紹介している。

菅義偉首相は5日、内閣記者会のインタビューに応じた。日本学術会議が推薦した新会員候補6人の任命を見送ったことについて「総合的、俯瞰(ふかん)的活動を確保する観点から判断した」と正当性を主張。憲法が保障する「学問の自由」の侵害に当たらないかとの指摘に対しても「全く関係ない」と断言した。
 学術会議の会員任命を巡る問題で、首相が詳しい見解を表明するのは初めて。
 学術会議に関しては「年間約10億円の国の予算を使って活動し、会員は公務員の立場だ」「省庁再編の際にその必要性も含めて相当な議論が行われ、総合的に俯瞰的な活動を求めることになった」と説明。
 その上で、人選について首相は「現状では、現在の会員が自分の後任を指名することも可能な状況」「推薦者を任命する前例を踏襲していいのか考えてきた」と話し、かねて問題意識を持っていたと明らかにした。
 今回、任命を拒否した6人が、安全保障関連法など安倍晋三前首相が進めた政策に反対していた点は「(判断に)一切関係ない」とした一方、個別の除外理由は「控えたい」と説明を避けた。学問の自由の侵害ではないと主張した根拠も示さなかった。
 首相は、憲法改正では「党を超えて建設的な議論を行い、国民的な議論につなげてほしい」と述べた。ただ、「首相としてはどう動くか」との問いには「首相としての立場で答えることは控えたい」とするにとどめ、執念を見せた安倍前首相との違いが際立った。

西日本新聞


菅首相は「総合的、俯瞰的活動を確保する観点から今回の任命について判断をした。学問の自由とは全く関係ないということです。それはどう考えてもそうじゃないでしょうか」と語っている。これでは、6人を任命したら「総合的、俯瞰的活動を確保」できなくなることになる。意味が分からない。「学問の自由とは全く関係ないということです。それはどう考えてもそうじゃないでしょうか」という言い方は、官房長官時代の「全く問題ない」とか「指摘は当たらない」という説明しないで断定するのと同じだ。

日本学術会議というのは、日本の国立アカデミーという地位を占め、以下のような形で成り立っている。根底にあるのは、政府はお金を出すが、学問の自由は侵さない、口は出さないという原則によって成り立っているということだ。

戦前の日本は、戦争遂行という国策に対して反対を唱えることを犯罪として取り締まった。大日本帝国が一番問題にしたのは国家に対する思想だった。戦後、日本学術会議は、科学者が国家によって学問の自由を踏みにじられ、国に従わされた歴史を踏まえて出発した。今回の任命拒否については、学者の研究態度を問題視して外したのではないか。それは学問に対する研究姿勢によって評価されたのではないか。という当然の疑問に答えなければならない。任命をめぐっては、戦後にも歴史があり、国会における答弁もある。首相の任命は形式的なものであって、推薦を拒否しないというのは、確認されてきたことだった。

したがって、この歴史的な経験を踏まえて、菅首相は問題について答える必要がある。
菅首相の
「年間約10億円の国の予算を使って活動し、会員は公務員の立場だ」「省庁再編の際にその必要性も含めて相当な議論が行われ、総合的に俯瞰的な活動を求めることになった」「現状では、現在の会員が自分の後任を指名することも可能な状況」「推薦者を任命する前例を踏襲していいのか考えてきた」
という発言は、用意周到に考え抜かれて出されたものだろう。「10億円の国の予算を使って活動」、「公務員」、「省庁再編」、「推薦の仕方」、「前歴踏襲」──首相の発言は、言外に10億円の国家予算を使っているので、学術会議は、公務員として政府に従って活動すべきというニュアンスを醸し出している。しかし、本当にそういうことを首相が言おうとしているのかどうか。首相のこれらの言葉をさらに深めるために、日本学術会議の歴史を調べる必要がある。

しかし、ネット上の議論は、この首相の言葉によって、日本学術会議の是非も含めた議論へと向かっている。10億円の予算の具体的な姿もすっ飛ばすような傾向もあるし、学術会議の政策提言に疑問を投げかけるものもある。いわば、こういう議論が起こるように、短い言葉で、本質をわざと踏み外しながら首相は言葉を発したように見える。学術会議の本当の姿をしっているのに。

政府を擁護するような論議がたくさん出て、末端では口汚く罵り合うような事態になる。どうして建設的な議論にならないのか。どうして2つの側に分かれて批判し合うのか。対立をあおって世論を二分するような傾向を生み出すところに一つのねらいがあって、揚げ足をとって相手を叩き潰す、その中で情報を大量に流すことのできる声の大きい方が勝つ。こういう図式のもとで議論が仕掛けられている。インターネット上の議論が世論を誘導していく。そこには計略に基づく世論操作がある。
最も大切な論点はどこにあるのか。これを見失うと揚げ足をとられて沈没しかねない。日本学術会議の問題で、最も大切な論点は、推薦した105人のうち、どうして6人を任命から外したのかという点だ。このことについて菅首相は答えるべきだということだ。

議論を行う場合、ぼくが一番気をつけているのは、「発言者の人格を否定しない」ということにある。たとえば、「あなたの人間性を疑う」という言葉は、相手の人格否定を含んでいる。聞かされた本人は、「疑う」という言葉以上に「人間性を疑う」=人格否定と捉える。ともすれば、ぼく自身にもこういう傾向が出てくる。これは、いわば日本人の一般的な傾向で、日本語という言語構造上の問題、日本語が形成されてきた歴史や文化にも深く関わっているものだと思っている。

問題にすべきは、論理であって人ではない。相手を批判するために、相手の人間性を攻撃して叩き潰すという傾向が、自分の中にもあることを自覚して議論をしないと、議論は感情的になって深まらなくなる。どうして、こういう傾向をもってしまうのか。人格攻撃とは何なのか。明日はそういうことを書いてみよう。


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Posted by 東芝 弘明