人格攻撃はどうして生まれるのか。

雑感

議会で発言をするときに、私は(わたくしは)というように言わないと違和感がある。俺とは言えない。自分を表現するときに、議会で俺という表現を使ったら、「不適切な表現」になる可能性がある。もしかしたら、無意識にぼくと言ってしまうことはあるかも知れないが。議員のチラシを作るときに、あえて僕と書いてみたら、「この僕という表現はやめた方がいい」と言われ「私」に変えたことがあった。このとき、「僕」を使った方が親しみが出るのではと思ったが叶わなかった。

議会では、自分のことをあたい(私)とか、あっし(私)とか、あちき(私)や拙者とかは言えない。わらわ(私)とか我が輩というのも今の時代に合わないだろう。自衛隊員や警官がよく使う「自分」という表現はいかがだろうか。逆にフランクな場で自分のことを私(わたくし)と言い続けると、「なんだお前は、かたいやつだな」と言われそうだ。

日本語の一人称は、相手との上下関係や社会的関係、人間関係の中で変わる。相手の呼び方も同じ。一人称から三人称に至るまで、複雑なバリエーションのある日本語は、たえず相手と自分との位置関係を意識して発せられている。上司の前で自分を表現するのに俺としか言えなかったり、あたいとしか言えない人がいるとすれば、それだけで社会人として一人前だとは見なしてもらえない。
このような日本語の文化は、日本人の意識を左右する。たえず細かく人間の位置関係を意識した言葉は、会議の中ではどうなるだろう。会議の中での発言は、「○○さんの発言」という形になる。この○○さんがこう発言したというのが、いつまでも残る。英語では、誰が発言したのかというのはすぐに忘れられ、itに置き換わるという。誰が発言したのかは問題でなく、問題になっているテーマが論議の中心になっていく。日本人の会議はなかなかそうならない。「○○さんの発言」という形がついてまわるので会議の中では発言しづらい。

会議運営のファシリテーション論では、「○○さんの発言」というのを○○さんから切り離す努力が、一つの大事なポイントになる。大きめの四角い付箋に意見を書いてもらってホワイトボードに貼りだして議論をはじめると、活発な発言になるのは、最初から発言が個人から切り離されるからだ。会議の中で発言を個人から切り離す努力を意識しないと、活発な論議にならない。
社長を交えた会議で、社長が断定的に発言したら、もうその会議はおしまい。結論が出たことになってしまう。これが一般的だろう。「社長のお言葉ですが、それは違うと思います」ということを許すような会社があるだろうか。
組織がピラミッド型になっていて、組織運営が力関係で成り立っている場合、組織のトップの意見に異を唱えることは不可能に近い。組織の力関係でそのまま会議が運営されたら意見はほとんど出ない。会議は部下から上司に対する報告のための場になる。

では、どうすれば会議を活発に運営することができるか。という問いに対して今日は言及しない。
今日の主題は、議論がどうして人格攻撃になりやすいのか。ということだ。それは、日本の場合、発言がたえず「○○さんの発言」という形で貫かれるからだと思っている。「○○さんの発言」という意識は、発言が人格を持った人間から発せられていることを意味する。「○○さんの発言」に異を唱えるときに、否定したいがために相手の人間性や人格をいっしょに攻撃する。これが、いとも簡単に、当たり前の意識として出てくる。この感覚がやっかいだ。とくにネットの場合、本名を名乗っていない書き手が多いので、自分という個人が特定されないので、相手の人格を攻撃しても、自分には直接跳ね返ってこない。有名人が罵倒され続ける仕組みが、ネット上には最初からできあがっている。

ネット上に横行する人格攻撃は、こういう形で出てくる。それは、権力者に対する批判も同じ。批判の仕方は人格攻撃、人間性の否定という傾向も多い。僕自身も、このことを意識しないといけない状態にある。相手の批判に対して腹が立ったら、相手の人間性に目が行きがちな自分がいる。人格を攻撃されたら冷静ではなくなる。人格攻撃には人格攻撃をという形になったら、罵り合いの無間地獄のような形になる。人格攻撃をされても人格攻撃で反撃しない。これが極めて大事になる。

「あなたの人間性を疑う」「あなたをそんな子どもに育てた覚えはない」という言葉にも人格攻撃が潜んでいる。これを言われたら人間は傷つく。議論をしたら傷つく。会議は不快というのは、人格攻撃が会議の中にあるからだ。「そんな考えだからうまく行かないんだよ。お前の考え方を変えろよ」というのも考え方を問題にしているように見えるが、人格を否定している。

人格は攻撃しない、批判するのは論理。議論になっているテーマを鮮明にして、テーマについて論じ合う。もし、相手が人格を攻撃してきたとしても、腹が立ったとしても人格攻撃はしない。こういうことを自分の戒めにしないと議論は深まらない。

もう一つ、大事な点がある。自分が人格攻撃をしないと思っていても、相手の論理を批判すると、相手が自分の人格を否定されたと思って、熱くなって反撃してくるという傾向があるということだ。この傾向も発言が「○○さんの発言」という文化の中から生まれている。テーマに基づいて議論をしていても、参加者は、自分の発言にこだわっていて、批判されたら自分が否定されたと思ってしまう。そういう捉え方をする人が多いということだ。

定期的な会議、濃厚な人間関係ができている会議ならば、会議の共通認識として、意見に対する率直な批判が出たとしても、それはテーマに対する意見であって、人間性を否定するものではないことを会議のルールとして確認したり、人格攻撃はしてはならないということをルールとして確認したり、みんなの頭を活用して新しいものを生み出すための会議だとして、会議の中で自分の考えを改めることが大事。それをルールにするなど、そういうことを共通のルールにすればいい。

ネット上の議論を通じて、人間的な信頼を重ねることは可能だと思っている。それは、自分の中にも潜んでいる人格を攻撃する傾向を意識して、人格攻撃をしない、問題にするのは論理。このことを自分の戒めとして向き合うことだ。人格を攻撃されたら腹が立つけれど、人格攻撃で応酬してはならない。
これは、訓練でもある。実際にそういう訓練を積み重ねないと、人格攻撃をしないで議論を深めるということはできない。ぼくはそう思ってネット上に文章を書いている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明