自己顕示欲と文章

雑感

議会広報委員会を朝から夜6時10分頃まで開催した。4月は印刷の仕上げを24日までにしなければならなくなった。したがって、今日と明日、2日連続の議会広報委員会の編集作業が大事になってくる。
朝一番にこのことを確認して、作業に入った。原稿のチェック、文章の調整、校正に時間がかかる。一般質問については、文章がおかしな調子であっても、徹底的に直すということをしないようにした。
ごく一部の議員だが、おかしな文章を平気で書いてくる。意味が分からないことがある。

文章というのは、自転車乗りとは違う。体得しても毎日書いていないと上達しない。習字やバッティングに似ている。書かなくなれば文章力は確実に衰える。本をよく読む人が、必ずしも分かりやすい文章を書くとは限らない。
大好きな作家を見つけて、こんな文章を書きたいと思い、真似をするところから文章の上達が始まるように思う。好きになった作家の文章を書き写してみるのがいい。語り口を真似して文章書いてみるのがいい。そういうことを繰り返していると文章の流れが良くなる。
文章が下手なのは、文才がないからではない。文才を持っている人は、ごくまれに存在するが、圧倒的多数の人は、文才で文章を書いているのではない。上手な文章を書きたいという思いが、次第に形になって文章はうまくなる。
「文才がない」という人は、文章を上手に書きたいと心底思わない人で、才能がないという思い込みに逃げ込んでいる人だ。
生まれつきピアノが上手な天才は存在する。しかし、生まれつきピアノを上手に弾ける人はほとんどいない。本物の天才は、努力するという点でも天才的な人が多い。才能がある上にものすごく努力するので、そういう人はかなり高い頂点に登ることができる。
本物の天才は、努力し続ける才能を持った人だろう。才能だけで物事を器用にこなしている人は、自分の土台を深めたり広げたりしないので、やがて枯れ果ててひからびてしまう。努力が人を次第に高みへと押し上げる。山に登るためには、山道を歩かなければならない。山に登る努力をしない人は、少しも高みに登れない。
「月に300枚書け」と言った作家がいる。文章も月に原稿用紙300枚を書くと新しい次元に到達できるかも知れない。ぼくは、原稿用紙に月300枚を書いたことはない。原稿用紙日産10枚、これはものすごい数だ。原稿用紙に10枚を書くという作業は、一日3時間程度文章作成に没頭することを意味する。これだけ集中力が持続すれば、文章も上達するように思われる。

自分の書いた文章を読み直して、おかしいと感じない人は、上達のしようがない。おかしさを発見できないのは致命的だ。人間は、おそらく自分のことが一番良く分からない。自分の顔を自分では見えない。鏡を通してみている自分の顔は、見事に左右が逆転している。写真は自分の顔だが、それはカメラという機械を媒介にし、印画紙という紙へのprintという作業を媒介しているので、肉眼で見るのとは大きく違う。人間は、自分の背中なども見えない。体の部分でさえ見られない部分がある。
自分のことを認識しようと思えば、鏡に映してみるとか、カメラに撮るなどを通じて、自分の外に自分という対象を映し出すことが必要になる。
文章も書いて見て、読み返してはじめて自分の意識の外に文章を置くということになる。しかし、自分の文章を客観的に見ることのできるようにしても、主観の強い人は、なかなか自分の文章を客観化できない。どうして客観化できないのかは、研究が必要なテーマだろう。なぜ主観が強いのかはよく分からないが、主観が強いと自分という存在を俯瞰できないということは分かる。
自分の文章を客観的に見られるようにしても、強い自我が、客観化した文章にものしかかっていき、自分の外にある対象として、自分の文章を突き放せない。
ただ、自分の文章を突き放して見られない傾向は誰にでもある。感情のほとばしりにまかせて書いた文章は、時間をおいて読み返さないと少々危険である。恋文などは、感情のほとばしりが強いだけにその傾向が強い。1日や2日、時間をおいて文章を見直すのがいいのは、感情の高まりがおさまったときに読み返せば、自分の文章を突き放してみることができるということだろう。
時間をおいて読み返すと、自分で書いた文章の欠点が浮き彫りになることが多いのは、時間によって自分の文章を客観視できることを意味している。

主観の強さは、自己顕示欲の強さであるかも知れない。知人に自分のことだけをずっと話し続ける人がいる。すべての関心事は自分が中心であって、他人とのかかわりもすべて自分が真ん中にいる。自己中。自己中心主義。他人のために立ち働くことによって、自分自身を高めるということではなく、物事の中心にいつも自分がいる。
こういう傾向をどうすれば克服できるのか、これはよく分からない。
主観の強すぎる人、自己顕示欲がものすごく強い人は、自分以外の人を心底好きになったり、自分以外の人を心底尊敬したりすることのない人なのかも知れない。
自分の生命以上に大切な人がいて、自分以上に尊敬できる人がいる。そういう人のために努力を惜しまないという経験を持っている人は、自分を客観視できるのかも知れない。

文章には、その人の人柄が表れる。鏡のように。それは隠しようがない。自分の文章を見直せない人、意味不明な文章を書いて、気にならない人は、ものの見方考え方にそういう傾向があるということを意味する。ものの見方考え方が、どうしても文章に表れてくる。自分の思考を鍛えるためには、毎日文章を書く必要がある。読むことと書くこと、これは車の両輪だろう。どちらかが欠けても思考は豊かにならない。よく読みよく書けば、思考は豊かに発展する。
日記を書くのがいい。日記を書くという行為は、人生を2度生きることを意味する。日々の生活の中で起こった出来事や感じたことを文章に起こしつつ、考え記録することは、日々の出来事をもう一度とらえ直すことを意味する。生活に即して深く考えたことは、日常の生活の中に生きて力になる。

Blogを書くようになって、日記を丸6年書けた。Blogに書いてきたことは、どんどん忘れている。過去の記事を読み返すと、こんなことを考えて書いていたんだと驚くこともある。
思考は、言語を活用して展開するのだから、文章を書くことは、自分の考えを自分の意識の外に展開しながら、深めていくことに他ならない。頭の中で形にならずに渦を巻いていたことが、文章を書くことによって、整列し綺麗に展開していく。シャッフル状態にあるトランプが、7並べのように綺麗に広げられて並べられていく。それが文章を書くということだろう。
脳みそは、物事を忘れるように出来ている。文章に書いたことでも綺麗さっぱり忘れてしまう。でも一度展開した思考は、潜在意識の中にお経の本のように折りたたまれる。思考の展開と思考の折りたたみ。文章を書くことは、一度展開された思考を潜在意識の中に折りたたんでいく作業なのかも知れない。
数学者や科学者は、自分の思考を展開するときに紙と筆記用具を持つ。紙と筆記用具がなければ、思考は展開できない。それと同じように、物事を深めるためには、文章を書く行為が必要になる。物事を深く考えるためには、数学者や科学者のように筆記用具が必要になる。最近発明された最大の筆記用具の一つは、パーソナルコンピューターだろう。この機械は、紙と鉛筆以上の筆記用具として生活の中に浸透している。

日記をパソコンで書こう。これが今日の結論だろうか。人生が豊かでありますように。


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雑感

Posted by 東芝 弘明