ゆっくり映画でも見たいけれど 2005年12月6日(火)

雑感

秋の夜長、ゆっくり映画でも見て、読書をしてという時間をとりたかったけれど、ぜんぜんそういう時間の過ごし方ができなかった。
読みかけの本のすべてが、忙しさの中で中断してパタンと止まっている。
それは、ほかのことに集中することを意味はしているけれど。
立ち止まって、いろいろなことを考えるのは大事だと思う。
物事をじっくり観察して、変化に心動かされて。
ゆっくり流れる時間の中に身をゆだねていると、握りしめたこぶしを開いていくように、心が解きほぐされていく。
色づいて変化していく景色の中をゆっくり歩き、澄んだ空気を吸い込んでいけば、胸の中にも紅葉が染みこんでいく。
でも、そういう時間がもてなかった。
毎日、めまぐるしく入ってくる「日程」という来訪者に真剣に向き合っていると、自分の中にある心が、どこかで分離してしまって、ひからびていく。自分でさえ自覚しないところで、美味しい水や潤いを求めはじめる。
子どもの頃は、ゆっくり流れる時間に身をゆだねるような経験をくり返していたように思う。
それはただ単に、夢中で遊んでいただけのことだったのかも知れない。
ぼくの子どもの頃は、毎年、山が鮮やかに色づいていた。
担任の先生が、新城の山を、まずは赤い絵の具で真っ赤に描いたのも、紅葉の赤の鮮烈さに魂が吸い取られたからなのかも知れない。
原風景という言葉がある。
従兄であった同級生と家の裏にあった稲刈りを終えた田んぼに入って、走り回っていると、胸の中に紅葉のさまざまな色合いが染みこんできて、それが原風景を形作っていった。
ぼくにとって、
ふるさとは、あの唱歌に描かれた世界そのもの。それは新城の風景に重なっていく。

ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく


石川啄木のこの歌を読んだとき、ぼくの目の前には、新城の風景が鮮やかによみがえってきた。「ふるさとの」という言葉が、ぼくの心の記憶をぱあっと開いてくれたらしい。
小学校卒業まで暮らした山間の小さな村。
記憶に残っているのは、子どもの頃の目線の高さから見ていた景色。
大人になって、同じ道を歩くと目線の高さのちがいをありありと感じる。
記憶は、体のいろいろなところに残されている。
ふるさとに立って、ゆっくり歩けば、離れていた時間の大きさが、目線の高さのちがいになって表れてくる。
10年以上前に、新城の星空を見たくなって夜中に1人で車を走らせたことがある。
コンクリートの堤防に仰向けになって見た星は、子どもの頃のままだった。
星は、胸に染みこむように降っていた。


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雑感

Posted by 東芝 弘明