亡くなった人について語る記者会見

雑感

洪水のように流される直前のテレビ局の対応を見て、今日は嫌な気持ちになった。
「記者会見があります」という話が繰り返しアナウンスされていた。
こういう「宣伝」がなされていたので、ぼくはどうしてもこの記者会見は見たくなかった。
目の前で起ころうとしていることは何なのか。
具体的な記者会見の内容も全く見ていないまま、今日はこのブログを書いてみたいと思った。

有名人の方々の中には、最愛の人を亡くし失意の中にあっても、人前に出て質問に答える人がいる。殺到するカメラと記者の前に向かい合って、語るときの胸中とは、どのようなものだろうか。茶の間というのは、例えばこたつがあって、お菓子があって、そういうものをポリポリ食べてテレビを見るという状態であったりする。テレビの向こう側で深刻な事態が起こっていても、そこから隔絶された違う空間に茶の間がある。当事者がいる現場と、テレビが設置されている家庭の空間とは、ものすごくかけ離れている。日常の暮らしの中にリアルな映像を届けようとするテレビがある。なぜこういうことをするのかと問えば、視聴者がこういうことを知りたがっているからというかも知れない。
昼の番組では、神妙な顔をした人々が、スタジオにいて、悲しい面持ちで、いつも以上にていねいな口調でコメントを述べ、涙ぐんだりしていた。亡くなった人を思う気持ちがあるのは間違いないが、見ているとこういう番組の気持ち悪さが次第にふくらんできた。

かなり異様な光景がテレビを通じて茶の間に届けられている。
記者会見は全く見ていない。見ていないまま批判するようなことはしたくないが、昨夜亡くなった妻のことを語る姿にカメラを向け、神妙な面持ちで質問を重ねるという番組の編成の仕方に対し、見ていないのに一言言いたくなる。カメラを向けているカメラマンやマイクを向けている人にも問いたくなる。

親しかった人が亡くなったり、よく知っている人の通夜や告別式に行ったときに、ぼくは、どうしてもかけるべき言葉が出てこなくて、「この度は……」といって語尾を濁してしまうことが多い。語り出したら泣いてしまいそうになることもある。亡くなった人を抱えた家族の気持ちを考えると、どうしてマイクやカメラを向けられるのだろうかということを考えてしまう。
しかし、今日は、いよいよ亡くなったか、ということで、報道陣が殺到し、記者会見に大挙押し寄せてカメラを写し、フラッシュをたいて、ということが起こってしまった。テレビ局の中には、「今日はやめておきたい」とか、「やめておこう」とかいう判断はないのだろうか。「『やめよう』というような感情は、個人のものであって、知りたい視聴者がいるので、仕事としてわれわれは、マイクとカメラを向けざるを得ない」と思っている人もいるのだろうか。でも視聴率を追求しているテレビ局のことだ。「この取材は視聴率アップにつながるので、重視して放送すべきだ」と考えている人間もいるに違いない。踏み込んで書けば、亡くなりかけている状況を把握して、体制を整えて準備をしていた部署もあったとさえ思える。準備万端、いざ出陣というような姿勢で臨んだ局があったのではないかと思ってしまう。
今日インタビューに立った男性は、1日に2回講演を行う責任を負っていた人だった。朝の講演と夜の講演の合間に記者会見ができるという判断は、インタビューに立った人の判断だったのかも知れない。でも亡くなった次の日にこういう形でインタビューに応じなければならない状況を作りだしたのは、報道をヒートアップさせたテレビ局だろう。

渥美清は自分が亡くなったら家族には「逃げろ」と言い、葬儀は全部身内ですませ、一段落してから公表するようにという態度を取った。そういう態度を取った芸能人も数多い。どうして今回は、こういうような形になったのだろうか。今日は、テレビというメディアの一番醜い姿がにじみ出た1日だった。


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雑感

Posted by 東芝 弘明