アリストテレスの本を2冊買った

雑感

アリストテレスの話を書いたので、きちんとアリストテレスの本を読んでみようと思って、Amazonで本を注文した。買ったのは『弁論術』と『詩学』の2冊。『詩学』はFacebookの友だちである乙部さんからのおすすめだった。2500年前の哲学は、全ての学問を指していた。自然科学、物理学、生物学、天文学、気象学、倫理学、論理学、政治学、文学など学問の全てが哲学と呼ばれていた。アリストテレスは、「万学の祖」とよばれる人であり、これらの学問全般にわたって多大な影響を与えた人物だ。もちろん、哲学者の言説は、当時の時代に大きく制約されざるをえないので、多くの分野で誤りを犯している。それらは時代の制約そのものであり、アリストテレスがいくら天才であっても、その当時の科学全般の発展に規定され、それを超えて前に進むことはできなかったので、アリストテレスをして永遠不変の絶対的な真理を述べることは不可能だった。
では何を学ぶのか。それは読んでみてのお楽しみだろう。しかし、書評を読んだだけでも、2500年前にすでにアリストテレスが指摘したことが、現在にも通じる力を持っていると書かれている。これは驚きだ。自分も2つの書物を通じて驚きを実感したいと思っている。

インターネットが便利なのは、アリストテレスで検索してみると、大学の研究者が書いた論文まで引っかかってきて、それを読めるところにある。学ぶ前の導きの糸となるようなものが、ネット上にある。こういう環境がある時代に生きているのはいいことだと思っている。インターネットを批判している人は多いが、結局は自分の目でネット上にある深い資料とそうでない資料を見分ける力があれば、インターネットは極めて役に立つものだということだ。インターネットを入り口にして、より深く広い資料を探し当てればいいのであって、ネット上の情報を結論にしなければいいだけの話だ。

より深い情報は書物にあるというのは、今も昔も変わらない。薄っぺらい本もあれば、中身の濃い本もある。それらをどう見分けて学ぶのかにかかっている。学ぶのはとても知識ではない。もちろん、知識が物事に分け入っていく上で決定的な力になるが、知識を知ることによって学びが終わってしまうのではない。自分のものの見方、考え方に溶け込んで、新しいものの見方、考え方ができるようになる学び方が必要になる。
何が正しいのか、学んでもよくわからないことはあるだろう。それは致し方ない。そういう場合は、自分で学んだことを保留して、さらに学んでいけばいい。そうすれば次第に物事が見えてくる。一番力にならないのは、知識だけを学んでその知識を理解して満足してしまうことだ。Aという論文とBという論文が矛盾していても、いったいどちらが正しいのかを見極めようとしないで、自分の中で共存させても平気だという状況を積み重ねるのでは、本物の学びにはならないということだ。

学ぶことは判断することと深くつながっている。何のために学ぶのか。それは具体的なものを具体的に判断するために他ならない。しかし、判断は「決め付け」という過ちを犯す可能性がある。「決め付け」になることを恐れないで判断を行う。そのことを通じて過ちを犯しながら前に進んでいく。これが学ぶということだと思っている。ここでいう判断は、仮説とほぼ同じだろう。絶対にこれが正しいと思ってしまうと、修正がきかなくなる。こういう状況のもとでは、こういうことが言えるというような判断が重要だ。いつでも訂正可能な判断。これを積み重ねていく。そのために学ぶということだ。

アリストテレスのアウトラインを学んで、アリストテレスの本を読んで、自分なりに理解して、判断してみたい。誤読しても構わない。善は物事に対する意識の反映なので、反映という非常に豊かなものの中で自分なりの善を発見すればいい。そう思ってアリストテレスに向き合おうと思っている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明