情報分析に役に立つのは哲学だろう
脳は休むことを知らない。眠っている間も脳はフル回転している。起きている時もフル回転している。同じだ。会話をよく例に出すが、相手と話をしていても、すぐに人間は返事を返している。これが何を意味しているかを知るべきだ。
脳に入ってくる情報は、自分が思っている以上に瞬時に処理されている。脳と体は有機的に結合しながら、刺激に対して反応している。脳はメインコンピューターだが、脳だけで全てを処理している訳ではない。人間の体には脳とは独立した機関や機能があって、それが脳と結びついて情報を処理している。自分の意識に上ってくる情報以上に、人間の脳は、もっと多くの情報を受け取って様々な処理を行っている。
体を動かすために脳は存在しており、どう動かすかということについて、行動のすべてを意識化している訳ではない。脳が潜在意識下で処理している情報は、すごく多いということを大胆に認めれば、人間の行動は飛躍すると思われる。
インプットとアウトプットでもっとも重要なのはインプットだろう。豊かなインプットなしには、豊かなアウトプットは実現できない。アウトプットで大事なのは、多角的に徹底的に考えるということだろう。僕の場合、考えるためには、書くことが必要だ。書くための筆記用具のひとつがパソコンだ。マックがいい。考えが進む。行動して現地に行くということも重要だし、他人から話を聞くこと、対話することも重要だ。相手と話をしていると考えが深まることが多い。
徹底的に考えていると、睡眠後考えが深まることがよくある。前の日徹底的に考えていたら、次の日さらに考えが深まる。脳は、眠っている間に前の日のことを反芻して整理している。この整理が起きた後役に立つ。
情報がたくさん入ってきて整理がつかないので整理したいという人がいる。もったいない。整理のために考えるのは本当にもったいない。整理は存在意識下で脳が勝手にやってくれる。情報の収集をおこなって、何が大事何かを徹底的に探究していけば、ことの整理は潜在意識下で進んでいく。
おそらく考えるという作業は、情報の重要度と情報と情報の連関について、価値判断をしながら進んでいくものだと思う。こういうことをしないで玩具箱のように情報を収集したら、整理がつかなくなって、「整理がつかないので考えたい」ということになるだろう。
重要度や物事の連関を考えながら情報収集していると、この情報は今回の追及テーマの外にあるものというのが見えてくる。それは今後役立つ。物事の本質と連関・連鎖、これを見届けながら考えを深め、俯瞰(総合)と分析を繰り返して考えを深めていけば、脳は潜在意識下で大きな仕事をしてくれる。ここから得られる感覚は、潜在意識下での思考に支えられているので、それは単なる思いつきのような域をはるかに超える。
ここまでは、昨日、フェイスブックに書いたもの。ぼくが書いた話の根底には池谷祐二さんがいる。フェイスブックの投稿を気に入ってくれた人がいたので、池谷祐二さんを紹介した。紹介したついでに池谷さんの本を2冊を買った。昨日書きながら気がついたのは、脳は潜在意識化で情報の整理をしてくれるが、自分で探求するプロセス上、必要なことがあるという点だ。それは、弁証法的な観点が極めて重要になるいうことだ。全ての物事は、連関と連鎖の中にあり、事物は複雑な関係性の中にある。この連関と連鎖の中にあることを意識しながら、情報を収集しつつ、事の本質はどこにあるのかをたえず見極めながら考えるということだ。情報収集の際、重要なのは哲学だということになる。哲学のものの見方考え方を身につけていれば、自分で収集する情報の整理がつく。こういう基礎的なものがあれば、脳による潜在意識化での整理が役に立つ。
科学的社会主義の唯物論と弁証法。このものの見方、考え方が情報収集に生きる。野党が一目置く日本共産党の政策の力の根底にあるのは哲学だろう。
日蓮正宗薦めブログ投稿をしておられるある宗教者が学問的な観点から、
共産主義の批判をしておられますが、どの様に反論なさるのか、お聴きしたいです。
実は私は、日本共産党の現状について、その宗教者がどの様に考えているか、
投稿したばかりです。
この書き方だけでは、何を書けばいいかよく分からないですね。日蓮正宗自身は、政党支持は自由です。お寺はそういう態度を取っているので、日蓮正宗の信者さんの中には、色々な政党の支持者がいます。日本共産党を理解して支持している信者さんもいます。「学問的な観点から共産主義の批判をしておられる」ということですが、その内容が想像できません。
ごめんなさいね、正確な書き方をしなくて。
哲学ブログサイト、今8位の、ある宗教者が、タイトル名 マルクスの亡霊ーーーーーと言う
記事を御書きになられています。
その記事に対する反論を御聞きしたいです。
おたく様のブログが今のところ、10位なので、すぐ上に有ります。
クリックして、お読みください。
僕は宗教とは、上からの眼差しかなく、全部嫌いです。
ただ、その日蓮正宗の方の反共産主義的な考察は、
論理的で僕には反論出来ませんでした。
それで、日本共産党の党員の方はどの様に考えておられるか、を
お尋ねしています。
宜しくお願い致します。
この方はピケティ批判を極簡単に書いています。ピケティ批判は、枝葉のようですね。共産主義批判を具体的に書いているところに言及してみます。
これらのことに見解を示すのにも、少し骨が折れるし、実際のマルクスやエンゲルスの言葉も引き、日本共産党の見解も対峙して示す、つまり論考として書くのには、きちんとした準備が必要なので、そういうものとしては書きません。必要最小限の反論は、日本共産党綱領だけで十分のような気がします。それでは味気ないので、もう少し書いてみようと思います。
しばらくお待ち下さい。
共産主義が全体主義になる理由① 私有財産の否定
私有財産の否定というのは、共産主義が日本に紹介された頃から行われた批判ですが、雑多であった社会主義・共産主義の中には、私有財産の否定があったようですが、科学的なものの見方、考え方を基礎においたマルクスとエンゲルスが明らかにした共産主義には、私有財産の否定という概念はありません。マルクスは資本論の中で、社会主義になると私有財産は豊かに再建されると主張しています。
共産の語源はコミュニティと同じコミュニズムです。共同体のことですから、地域の共同体というように普通に使われている言葉です。共同体のことを共産と訳したところから日本では共産主義という言葉が使われるようになりました。ぼくは、この共産コミュニズムを結びつけて解釈するならば、共産というのは、共同で生産するという意味もあると思っています。
共同で生産する中には、巨大化した企業の生産手段を社会の手に移して(これを生産手段の社会化といいます)、共同管理し、そこで働く人々が生産の中で主人公になる関係を実現するという意味が込められています。生産手段というのは、工場や機械などのことです。
共同で生産する仕組みは、すでに資本主義社会で形としては実現しています。圧倒的多数の会社における商品の生産は、人間の共同による生産になっています。しかし、そこで働く労働者は、生産の主人公にはなっていません。
この関係を変えるためには、生産手段の社会化が必要です。しかし枠組みとして生産手段の社会化が実現しても、そこから先、労働者が文字どおり生産の主人公になるためには、さらに長い時間が必要です。この道は、かなり長いスパンをともなうもので、試行錯誤が必要になると思われます。
生産手段は社会化されますが、未来社会において私有財産の方は、今以上に豊かになるというのが、日本共産党の見解です。
共産主義が全体主義になる理由② 計画経済
計画経済は、今の日本も行っています。「骨太の方針」がその最たるものです。経済に計画経済の考え方を導入したのはソ連でした。しかし、「日蓮正宗のススメ」さんが書いているとおり、ソ連の計画経済は、極めていびつなもので機械的でした。
マルクスの資本論は、社会主義の青写真を書いたものではなく、資本主義の経済法則を解明したものです。したがって、社会主義への移行ということを資本論を導きの糸とするならば、マルクスが明らかにした資本主義の経済法則を十分理解して生かす(もちろん、時代が進んで資本主義はマルクスが生きた時代よりもはるかに大きく豊かになっているので、現代資本主義の具体的分析が必要です)ことが重要になります。
日本共産党は、資本主義から社会主義への移行には時間がかかると考えています。移行の形も市場経済を通じて社会主義へというものであり、長期にわたって日本社会の中には資本主義的な生産形態が広く残ることになります。巨大な生産手段の一部が、生産手段の社会化という道に移行しますが、国民の生産に対する自由は完全に保障されるので、今と同じように自由に経済活動が行われます。個人の商業活動は、自己実現という側面もあります。市場経済は、資本主義以前から存在していたと思いますが、市場経済が最も発達したのは資本主義でした。社会主義に移行した日本の中で立てられる計画経済も、今の「骨太の方針」のように、社会をこういう方向に進めたいというものになります(骨太の方針は、企業の利益最優先です。日本における社会主義の計画は、国民主権を貫くものに変わります)。国家権力を使って上から強制的に従わせるような計画経済は、統制経済であり、それは、社会主義・共産主義とは相容れないものです。
ソ連は、対外的には覇権主義、国内では自由と民主主義の否定という社会でした。経済建設の側面でも国家による強制と統制を行っていたので、もっとも肝心なところで社会建設の基本点を踏み外したことによって崩壊したという側面をもっていたのだと思います。
日本共産党綱領は、社会主義的な建設について、以下のように書いています。ここの下りは、「日蓮正宗のススメ」さんの①と②の問への日本共産党としての公式な回答になっていると思います。
社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。
生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。
生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。
共産主義が全体主義になる理由③ 一党独裁
マルクスもエンゲルスも、共産党による一党独裁を考えていませんでした。議会制民主主義の発展に注目し、議会を通じて革命を実現するという方向に未来の発展方向を見いだしていました。マルクスよりもエンゲルスの方が長く生きたので、議会制度の発展に注目したエンゲルスは、議会を通じての革命という明確な方向性を打ち出していました。
議会を通じての民主的な革命というのは、当然のこととして多党制を前提としています。日本共産党は、天皇中心の明治以降の日本の社会のなかで国民主権を掲げた政党として運動してきました。戦後の新しい憲法の下では、国民主権と国家主権、基本的人権、恒久平和、地方自治、議会制民主主義を貫く努力をしてきました。安保法制の運動が高まったときに日本国憲法第13条のある個人の尊厳の尊重にこそ、日本国憲法の神髄があると自覚して、未来社会においても、個人の尊厳の尊重に基礎をおく社会をあらためて展望しました。
この運動の中でジェンダー平等を実現することを掲げるに至りました。
日本共産党は、具体的な運動の中で自由と民主主義とは何かを体得してきた政党です。自由と民主主義を体現してきた日本共産党という政党は、さらに自由と民主主義が豊かになる社会、人間の個性が保障される社会を展望しているということです。今の日本の社会の中での運動が、未来社会をつくる力になっています。
綱領は次のように書いています。
社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。「搾取の自由」は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、「国民が主人公」という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる。
さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。
社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。
人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。
共産主義が全体主義になる理由④ 暴力の肯定
③に対する回答をしたので、④については、答える必要がないかと思います。「日蓮正宗のススメ」さんが、何をかいているのか読み直すと、マルクスが暴力を肯定していたと書いています。資本主義社会が誕生したとき、議会制民主主義は未発達でした。その時代は、フランス革命のように民衆の隆起による政治権力の奪取という方法が一般的でした。初期のマルクスにそういう考え方があるのは、議会を通じて革命を成就する条件がなかったからです。
「日蓮正宗のススメ」さんは、マルクスが暴力を肯定していたのはマルクスの性格にもあったかのように書かれていますが、ちょっと笑ってしまいました。説得力がないと思います。
日本共産党は、選挙を通じて日本を民主的に変革することを目標にしています。当面の目標は、国民主権を文字通り実現する民主主義革命です。革命というのは、権力が移行することを意味します。一部の勢力による権力から国民主権を実現するために、連立政権による政権の樹立が当面の目標です。日本共産党は、1党で政権を獲得することは考えていません。立場の違う政党が一致点で合意して連合政権をつくるというのが、日本共産党の目標になっています。野党による一致点での共同に未来があると思っています。
日本の民主主義革命で実現するのは、経済の民主主義と主権の回復、日本国憲法にもとづく国づくりです。この目標は、多くの人の共通の目標になる可能性をもっていると思います。
共産主義が全体主義になる理由⑤ 無神論と唯物論
唯物論は、人間の心を軽視していません。脳科学者が人間の精神の仕組みを脳の働きによって解明しようとしているように、人間の心がどのような形で成り立っており、色々な刺激とどう結びついているのかを大切にしています。
唯物論は、物質が根源的なのか、精神が根源的なのかという哲学の根本的な問いに対して、宇宙はまず物質ができ、物質の豊かな発展の中で精神が誕生したという立場に立っているということです。唯物論哲学は、科学的な知見が発展するたびに発展するものです。
観念論は物質と精神との関係で、精神がより根源的だという考え方だと思います。
日本共産党の哲学は、唯物論と弁証法によって成り立っている科学的な哲学ですが、この考え方を国民に押しつけることはしないし、宗教を信心している人も、綱領と規約を認めれば党員になれるという立場なので、唯物論哲学の立場に立っているかどうかについては、入党の基準にはしていません。したがって、実際に日蓮正宗の信者の人の中にも日本共産党員はいます。
ここからはぼくの思いです。
宗教を信じている人もいれば、信じていない人もいます。フィンランドでは、道徳教育の中に積極的に宗教を取り入れ、キリスト教を信心している人には、キリスト教に基礎をおいた宗教道徳が学べるようになっています。同時に宗教を信じていない人には、宗教色を取り除いた哲学を道徳の中心において教えています。この過程は、小学生から高校生まで行われていて、共通しているのは、人間は何のために生きているのか、人生の目的とは何かという問いに対して、自分で答えを見いだせるような問いかけです。教え込むのではなくて、テーマに対して深く考えられる人間を育てようとしているのは興味深いです。
フィンランドの国の考え方の中には、無神論=全体主義なんていうのは、これっぽっちもないということです。ぼくは、日本もこういう国になればいいなと思います。
思想信条の違いを尊重して守るというのが、日本共産党の考え方です。唯物論を理由にして全体主義になるというのは、根拠がないと思います。アインシュタインは、核兵器開発を進言して引き起こした結果に対し、深く反省して、戦後核兵器廃絶を訴えました。彼は晩年、「科学を見極めんとする者は共産主義にならざるを得ない」という言葉を残しています。