議員定数を14から12に。自治区町会が要望

雑感,出来事

区長会からかつらぎ町議会の議員定数を14から12に減らすべきだという要望書が出されてきた。いま県内でもかなりの勢いで議員定数が削減されている。際限がないようだ。地方自治体の議員のなり手が減っている。報酬が40万円を超えている市議会は、若い人も含め立候補があり、多数激戦のような形になることが多いが、20万そこそこの報酬の町村、30万円台の市議会は、立候補が少ない状況が続いている。

一番根底にあるのは、地域の衰退だろう。地域産業が衰退し、同時に年金の受給が完全に65歳になったなか、人々の働き方は激変した。60歳を超えた人がみんな働きはじめた。賃金は10数万円という世界で。日本人には老後が亡くなりつつある。1億総活躍社会とは、「死ぬまで働け」という別の表現になりつつある。80歳を超えた人に80歳(無職)という形で文章が出てくる。

町議会の議員の一つのパターンは、60歳を超えた人が議員になってくるというものだった。それは最近の話。地域に活力のある時代は、農家である議員、商売人の議員、土木業の議員など多彩だった。サラリーマンをしながら議員になるという人も少しいた。やはり、議員の構成も社会を写す鏡のように社会をある程度反映していた。

社会が衰退しているので、議員定数を削減しろと言われたら、この流れに抵抗するのは難しい。定数を2減らして12にしても無投票という傾向さえ生まれる。地域の活力のなさはこういう形で現れている。このことを考えたら定数削減がいいのかどうか。どうして地域から議員が出ないのか。こっちの方を考えるべきだろう。

14人から12人に。少数精鋭。ある人はこう言った。しかし、議員の人数を減らして少数で精鋭になるようなことはない。議員が減るに従って、議会の機能が衰え質は下がる。集団の母数が一定数なければ、議員の役割分担が機能しない。14人を12人に減らしたら増えている事務を議員が深く広く集団で把握する力は確実に落ちる。多様な視点を今の時代は求めているが、議員定数の削減はそれを確実に奪う。

いまの地方自治体の事務は、国の制度と深く繋がり、その傾向は今後さらに一層深く広くなろうとしている。ロボットのような地方自治体。日本共産党流にいうと、地方自治体が地方自治体でなくなるような傾向が強まっている。自治体の自由裁量が剥奪されている時代の中で、地方を自治の力で再生することが問われている。自治体を縛り付けているのは法律であり、国からの通知や通達だ。これを読み解いて自治の力を発揮するのは並大抵の努力では実現しない。地域の衰退も、大企業中心、アメリカの利益中心の政治による「人災」なので、必然的なものではない。しかし、今の政治の枠内で再生を目指すのは極めて困難だ。この困難な課題に全ての地方自治体は向き合っているが、日本の政治の根本に何が横たわり、何が自分たちの未来を阻んでいるのかを知らない人が圧倒的に多い。

質が向上する要素は、議員の頑張りのみになる。上に書いたとことを読み解いて、自治体が自治体として存立していく道を貫いていくのは大仕事になる。善意の議員が、なかなか立脚点を得ることができず、次第に全体の政治に流されていくのは、このような流れが見えていないからという側面がある。定数を減らしたら議員の質が上がるというのは、何にも関係がない。因果関係がないということだ。選挙に強いことと議員として仕事をすることは必ずしもlinkしない。少ない定数を競争によってえれば、議員の質が向上するというのであれば、とっくの昔に日本の地方議会は変わっているはずだろう。少数精鋭という言葉は、議員定数削減とは何の関係もないということだろう。

今日はここまで。論点はたくさんある。今回の区長会の要望には論理がなかった。これは問答無用を意味してるのかも知れない。しかし、どんな結果になったとしても、議員の定数、地方議会と自治体とは何かということを多面的に冷静に深めていっしょに考えないとかつらぎ町の未来はない。議会は、自治体の仕事をチェックするとともに、住民の声を議会に届け、自治体を変えるという側面をもっている。この果たしている役割を見据えて、いっしょに未来の在り方を見つめないと、建設的な議論にはならない。そういう機会になるかどうか。多面的に考えてみたい。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感,出来事

Posted by 東芝 弘明