「競争」ではなく「共生」を
民主党議員だった人で、民主党を離党し、すぐ維新の会に入会した人がいる。
この人のBlogを読んだ。
多くの方が語るように、この人も輸出中心の従来のモデルでは右肩上がりの経済発展はありえないと書いている。
「もはや、かつてのような右肩上がりの経済は望めない中、企業は国際的な競争に勝つために生産拠点を海外に移した結果、賃金と商品価格の低下と高い失業率を招き、非正規労働者が大量に発生。日本の特徴であった中間層が薄くなってしまいました。途上国から資源を安く買って、大量生産でモノを作るって売ることでは、もう日本の優位はありません。」
この認識の上に次のようにも書いている。
「私は地域が競い合い、それぞれの特徴を活かして発展する制度を作ることで、日本の活力を引っ張る道筋を作りたいと考えています。」
世耕さんも「右肩上がりの経済発展はあり得ない」とテレビで言っていた。
2人に共通しているのは、経済発展=競争だ。国際的な競争で勝てない=経済発展しないのであれば、地域間競争だ。というのがこのBlogの主の認識だろう。
発展=競争だというのは、資本主義社会における競争だということに他ならない。
資本主義の下での競争とは何かを考えなければならない。
企業間の競争が、資本主義の下での競争の核になっている。
企業間競争とは何か。
他の企業よりも儲けを上げるために、技術革新を行って特別利潤を得て資本の増大をはかること。特別利潤のためにまずは、長時間労働、次いで超過密労働、次いで技術革新が必要になる。技術革新は、商品に新しい使用価値(この場合は付加価値)をつけること、もしくは全く新しい製品を開発することによって、市場で優位に立つこと、もしくは、製造技術の発展によって生産性を向上させることによって、特別利潤を得ることのために行われる。
新しい技術に基づく商品、生産性を向上させた商品などが市場に投入されると、他の製品との比較において、特別な利潤を獲得できる。生産性を向上させることに成功すれば、1商品あたりの労働時間の短縮が実現するので、コストダウンが実現し、特別な利潤の獲得になる。そこに新商品開発が重なれば、利益は飛躍的に拡大する。
社会のために、人類の幸福のために、という宣伝は行われるが、これは、純粋なものではない。商品宣伝のためのコマーシャルという比重の方が重い。もちろん、商品の開発によって人類の進歩に貢献し、ライフワークに変革をもたらしたものは多い。開発者の中には、純粋に人類の進歩を願っている気持ちもある。もの作りへの誇りは、こういう意識に支えられてもいる。しかし、この側面よりも、「あくなき利潤の追求」という側面の方が強い。
兵器の生産を考えればよく分かる。地球環境ビジネスとかエコとかを標榜している企業が、環境を著しく破壊している兵器を平気で作る。ぼくと同じ名前の会社は、生活家電を熱心に作っているが、その一方で原発の開発を行っている。こういう2つの顔は、矛盾しているように見えるが、実は統一されている。2つの顔を結びつけているものは、「あくなき利潤の追求」だ。
資本主義社会の下での経済発展は、企業間の競争を土台とした「あくなき利潤の追求」の結果としてもたらされている。経済発展=競争という認識はここから生まれる。しかし、資本主義の下での競争は、人間への過酷な搾取を土台とするものなので、企業間の競争が強まれば強まるほど、過酷なものにならざるを得ない。日本国民に重くのしかかっている競争主義は、この経済界の「あくなき利潤の追求」によって熾烈を極めている。教育の世界における受験競争圧力は、この資本主義的な競争を土台として成立しているものであり、新自由主義的な経済政策の下では、教育の世界に積極的に導入することさえ行われている。競争は「善」として、教育界に採用され、組織されている。中高一貫も高校の学区制撤廃も、塾による補完で成り立つ公教育もすべては、競争の組織化によって苛烈になっている。この土壌の中で非人間的ないじめが発生している。大人社会の競争主義によるいじめの構造が、教育を通じて子どもの世界に輸入され、いじめが深刻な規模で広がっている。いじめる側の人間性の破壊も深刻だ。いじめられた側の傷はきわめて深い。
新しく維新の会に入った方は、地域の競い合いを求めている。輸出中心の企業による競争は、難しくなっているものの、舞台は全世界に広がって、休むことなく行われ、首切り、非正規雇用の増大、賃金の切り下げが続いている。この方は、この問題を指摘しつつ、しかし、この問題への対策については全く言及しないで、地域間の競い合いを提唱している。
これでは、競争×競争ということになる。
この地域間競争こそが、維新の会が提唱している道州制に他ならない。橋下さんは、交付税の廃止と消費税の地方税化を主張している。消費税は東京と名古屋が一番多い。和歌山は少ない。これが実現したら和歌山の財源は極端に少なくなる。地域の自主的な競争に任せるという維新の会は、日本社会を江戸時代の幕藩体制に戻すのに等しい。経済力の弱い地域は、小さな藩のように没落していく。
こういう仕組みを克服するために、戦後の日本は地方交付税制度を確立し、財源保障制度と財政調整機能を実現した。この優れた制度を破壊すれば、地域間格差が極端に広がって、法の下での平等は完全に破壊される。
維新の会に入った方の主張というのは、このようなものだ。これは日本社会の破壊、日本国の破壊につながる。
競争に基づく経済発展主義には、嫌悪感が生まれている。経済発展は必要ないという見方は、この嫌悪感の現れだ。
競争ではなく共生を。自然界は、弱肉強食を原則とするよりもむしろ、共に生きる共生の関係に広く覆われている。弱肉強食も食物連鎖の大きな視野でみれば、共生というものに覆われている姿が見えてくる。地球上の生物として、最も数の多い微生物が共生を支えている。
経済発展は、人類の幸福のために、進歩のために行われるというようにはならないのだろうか。それは実現できる。資本主義の下でも、「あくなき利潤の追求」を行おうとする資本という猛々しい野獣の手を縛り、地域経済に循環を生み出す仕組みや国民に利益が還流するような仕組みを作れば、つまり、競争を制限して共生できる仕組みを作っていけば、競争主義的でない経済発展、人類の幸福に貢献しながら、環境にも配慮した発展は実現できる。エネルギーの地産地消は、共生の一つの具体的な姿になる。
地域間に競争を組織するのではなくて、地域に共生を組織することによって、日本経済は発展する。この方向に進まないかぎり日本社会の立て直しはできない。具体的な方向を書いておこう。
資本に対する民主的な規制によって、賃金の引き上げ、正規雇用が当たり前の社会の実現する。同時に農林水産業の再生、社会保障の充実による経済循環の実現と地方の再生、自然エネルギーによる地域社会の再生、中小零細企業育成による地域経済起こしを実施する。このような経済改革とともに、税制の民主的な改革をおこなう。累進課税の強化、消費税5%への据え置き、軍事費の削減や大企業の優遇税制の廃止による財源確保によって社会保障財源を生み出し、社会保障の再生に取り組むなどがその内容になる。こういう数々の方策こそが、21世紀の国づくりには必要だと思われる。
日本共産党の経済提言は、こういう思想に支えられている。この思想は、日本国憲法の原則を守ることと一体のものでもある。
企業間競争ではなく、地域案競争でもなく、「共生」こそがすべての再生の鍵を握っている。









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