「自分探し」は「青い鳥」? 2006年5月10日(水)

雑感

自分探しという言葉がある。
自分というものがつかめないので、自分を探しに行く=心の旅をするということだろうか。
自分探しのために実際に旅に出る場合もあるだろう。
でも。
と思ってしまう。
自分というものは、自分ではなかなか分からない。自分を深く見つめていくと定まらない感情の揺れなどもあって、これが自分だというカチッとしたものには突き当たらないのだ。
“人の心は、その人の胸の内に存在しているのではなくて、人と物、人と人との間にある”と昨日書いた。そういうものだから、心の内に向かって内なる旅をおこなっても不確かな心はとらえられないように思う。
自分探しによって、新しい自分を発見できることもあるだろう。しかし、それは自分探しによって発見できたのではなくて、新しい体験や出会いによって、自分の可能性をあらためて見いだしたということなのかもしれない。
自分探しという長い旅に出て、さまよい続け、本当の自分を見つけられない人も多いかも知れない。そういう人には、自分探しをする時間があるのだったら、まわりの人の役に立つことをしようよ──そう話したい。
自分の内なる旅に出ている人には、そんなところに本当の自分はないよといいたい。
小さい頃、心的外傷後ストレス障害を何らかの形で受けた人が、催眠療法で過去に遡り、原因にたどり着き、それをふまえて治療を受けることなどは、自分探しというものではないように思う。これは、精神医学の有効な治療方法であって、心的外傷後ストレス障害の原因に遡ろうとする努力にほかならない。何のために内面に向かって旅をするのか──この場合は、非常に目的がはっきりしている。
自分探しという言葉には、今の自分は本当の自分ではなくて、もっと自分には別の可能性や個性がある──そういって本当の自分を探しに行くというようなニュアンスがある。
これは、幸福の青い鳥を探しに行ったチルチル・ミチルが、結局は青い鳥を見つけられずに家に帰ってきて、青い鳥は自分の家にいたことに気づくという話に似ている。
自己形成は、外界に対し真摯に働きかける行為によって、しだいに結晶のように培われるもの。自己実現というのは、精一杯努力したさきに実る「果実」ではなかろうか。
大切なのは、成功するということではない。成功も失敗も積み重ねていくプロセスの中から体の五感を全部総動員して学ぶということだ。
新しい自分に出会いたい人は、新しいことに挑戦しよう。そこには新しい出会いがあり、新しいドラマがある。
40の手習い、50の手習い。60の手習い。なんでもいい。
新しい努力には、夢や希望がついてくる。


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雑感

Posted by 東芝 弘明