育心 2006年5月9日(火)

雑感

集金先で子どもの心を育てるという話になった。
「育心」という造語がある。ぼくの好きな造語だ。
人の心は、その人の胸の内に存在しているのではなくて、人と物、人と人との間にあり、したがって心を育てるためには、物との関係、人との関係をより良いものにする努力が必要だというような考え方だ。
人間は、まわりの物事に対して能動的に関わっていく。人間の認識は、主体的・能動的に働きかけることによって獲得されていく。心も同じだと思う。
自分とまわりの関係をすべて切り離したら、心は育つだろうか。
生まれたときからすでに人間の心は出来上がっていて、箱の中に入っているというのではないだろう。父母との関わり合いや見るもの、さわるもの、つまり外界との関係を能動的に結んでいく中で、その積み重ねの中で心が育ってくるのだと思う。おそらく人間の性格は、ある程度遺伝子によって形作られているのだろうが、しかしそれは、単なるコアなのであって、生育過程の中で次第に形成されていくものの方がはるかに大きいと思われる。
大事なものを身の回りに置くということは、極めて大事なのだと思う。親が大切にものを扱うことを見て子どもは自然にものを大切にする心を育てていく。ものを大切にする心を育てることは、自分やまわりの人を大切にする心と深くつながっていく。
高価な物が必要だというのではない。たしかに高価な物にはいい物の多いが、人間が日常生活の中で関わり使用していくような物で、その人に愛着心を育て大切に扱っていうような物が、その人の心を育てるように思うのだ。大工さんや板前さんが自分の道具にこだわり、命を吹き込むような扱い方をする中で心が育つように感じるのだ。
人間にとって、道具というのは特別の意味をもつ。
道具を自分の手や足の延長のように扱い、道具を使って対象物に働きかける作業は、対象物をより深く能動的にとらえる行為でもある。道具を自由自在に使い新しい物を作り出す人々の中に職人芸とよばれる技術が培われていることが多々ある。それらの人々は、同時に物事を見る場合に「プロの目」というような卓越した洞察力をもっている。
これは、行為によって技術と認識が豊かに育っていることを意味している。さらに豊かな人は、その中から生き方がにじみ出てくる。育心というのは、こういう人と物との関係で心を育てるという意味だ。
日常の生活の中で人と物との関係を豊かにしていく道はいくらでもある。
たとえば、焼き物。自分の気に入ったコップやお茶碗、湯飲み、お皿をいくつか用意し、それを丁寧に扱うことを日々の生活の中で積み重ねていく行為が大事なのだと思う。小学生なら筆記用具を大切に扱い、鉛筆をていねいに削ることや、自分の好きな物を大切に扱うように促していくことが心を育てることに結びついていくということだ。
作家の中には、筆記用具にものすごく強いこだわりを持っている人が多い。作家の名前は忘れたが、書きやすいペン先を求めて万年筆を探し求めた話をエッセイで読んだこともあった。
子ども時代の宝物には、親から見れば何の価値もないと感じるものもあるだろう。しかし、子どもの考えにより添って、子どもが大切にしている物を親も大切に扱うことも大事だと思う。
「用の美」という言葉がある。これは、人が使うことによって形が整い洗練され美しくなった物に対して使われる言葉だと思っている。単に観賞用の美しい物ということではなく、日常生活の中で使われてきた物の中で発展させられてきた美しさということだ。そういう物が心を育てる上では大事なのだろう。子ども時代を過ぎて、物の値打ちが分かってくるときには、より良い物を使わせることが大事になってくるのかも知れない。
それは、ブランド物を身にまとって自分の値打ちを高めようとする行為とは全然違う。
「物は豊かになったが心が育っていない」という言い方がよくおこなわれる。しかし、こういう言い方からは、心の育て方は見えてこない。
物は豊かになった、しかし、日本人は、この豊かになった物と人との関わり方をぞんざいに扱ってきた。物と人との関係と関連について十分な考え方を育ててこなかったことが本当の原因なのだと思う。
一番、日本人の心を傷つけている商品は、使い捨ての商品だろう。100均の商品の中には、長く使えるいい物もあるが、使い道のあんまりない使い捨ての物は、しらず知らずのうちに人の心を深くむしばんでいく。袋を開け、食べれば、大量のごみが出てくるような食品を使うことは、物をぞんざいに扱う心を育てている。
そういう商品を作ることは、人間の物に対するモラルを破壊するということを、会社は考えなければならない。資源を大切にするリサイクルという考え方は、単に資源を大切にしようということだけではなく、人間の心を育てることと深く結びついている。
生産力が豊かになった今日、使い捨ての物を大量に作るのではなく、どういう物を生産すれば、人間の心を豊かに育てる役に立つのかを考えるべき時期に来ている。資本の側にそういう考え方が自動的に生まれないのであれば、限りある資源を大切に扱うような商品生産に切り換えようという運動を、国民の側から起こしていく必要があるだろう。
ドイツは、日本のようなインスタントのカップ麺がないらしい。ラーメンを食べたあとのカップが環境破壊につながるという認識をもっている社会なのだという。こういう国は、日本よりも随分物と人との関係を深く考えているということだろう。
集金の中での1つのお話。
こういう交流がおもしろい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明