国民は馬鹿であればいい

出来事

夕方同級生にあった。同級生はテーブルに座っていた。右手を少し上げて歩いて行き、テーブルに座った。お店には2組のお客さんだけだったが、斜め前に知り合いの女性が1人いて、夕ご飯を食べていた。目と目があったので会釈した。誰かしら知った人に会う。

彼が話をして、その話を聞くという形になった。

コロナ禍の中でこういう形で人に会うのは、少なくなった。どれほど人々は人に会うのを我慢しているかということを考えた。オミクラン株による感染の広がりが現実のものになりつつある。日本の政府は、教訓を生かし、対策を講じるということを放棄して、行き当たりばったりの対策を講じるようになっている。そう見える。

行き当たりばったりについて書いてみよう。
戦前、日本政府が、天皇制のもとで行き当たりばったりの戦争を繰り返し、破滅していったような空気が今の日本にも蔓延している。戦前、政府は批判される対象ではなく、国家が国民に命令する国で、報道機関は国家の手先になって国民に檄を飛ばしていた。

いま同じ仕組みで国と社会が動き始めている。維新の会の大阪府と読売新聞が、包括協定を結んだ記事がネットに出ていた。とうとうここまできたか、と感じた。
こともあろうに報道側が、とくに選挙後「野党は批判ばかり」とキャンペーンをはった。なんだろうこの国は。森友、加計学園の問題、桜をみる会、統計文書の改竄、河井案里元参議院議員の贈収賄事件など、目も当てられない事件が目白押しの中で、批判を忘れたメディアが、野党は批判ばかりというのは、メディアの役割を放棄した野党攻撃だった。

マスコミの大本営化はすでに始まっている。敵基地攻撃能力に対する批判をしないメディアは、社会の木鐸の役割を捨ててしまい、国と一緒に大合唱をするところまでになりつつある。このことに危機感をもって、一地点を広げ団結して一緒に批判したり、問題点を追求したり、積極的な提案を繰り返してきた野党に対し、「野党には力がない」とか「野党は批判ばかり」とか「野党共闘は野合」だとかいうのは、自民党による野党への攻撃の応援団をかってでる。自民党の野党批判を増幅するスピーカーに成り下がったものだった。

かくて、日本はアメリカの要求に基づいて、戦争する国への爆進をするようになっている。行き当たりばったりの政治は、批判を忘れ、応援団になったメディアと、批判されない政権党によって生み出された必然的なものだと思う。

政権党の危機感のなさは、オリンピックでの浪費、気候危機への能天気な対応と火力発電、原発推進などに全部表れている。
「日本は滅ぶ。しば、やばいで」
同級生は帰り際、そう言った。日本だけが賃金さえ伸びないなか、政権党と一緒になっている巨大な企業だけが儲けをしこたまためこんでいる。もうこの勢力は、日本のことなんて考えていない。この動きを見ることのできない馬鹿な国民であってほしいとこれらの勢力は思っている。生活に追われ、政治のことなど考えられない国民であてばいい。同級生は、こんな話もした。
彼の認識は間違っていないだろう。
ここまで日本の危機は深まっている。
「共産党の声は国民に浸透していない」と僕がいうと
「浸透せえへんなあ。志位さん好きやけどね。志位さん頑張ってよ」
別れ際の言葉が駐車場に響いた。


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出来事

Posted by 東芝 弘明