頭をよくするためには、哲学が必要

雑感

頭がよくなる方法。
人間の頭脳にはそんなに違いがない。違いはどこから生じるのか。それは、ものの見方、考え方によるし、人間の持つ性格にも左右される話は、少し前のブログに書いた。今日は、探究心と柔軟性から話をはじめて、哲学のカテゴリー論について展開してみよう。頭がよくなる方法は、哲学の論理学の力が必要だということを展開できれば、今日書くことは成功する。

ここに書くことは、言葉の遊びに見えたり、抽象的概念のこねくり回しに見えたりする人もいるだろう。しかし、ここに書いたようなことを理解できるようになれば、その人の思考は、間違いなしに豊かになれるように思う。

探究心と柔軟性に関する弁証法について、少し書いてみよう
事物を探究するためには、問題意識を持って、いわば仮説的な見通しをもって、徹底的に探究する姿勢が重要になる。物事を徹底的に探究する執念がなければ、どのような問題でも道は切り開けない。こういう姿勢は、頑固ということでもある。一つの物事に集中して徹底的に探究していくのは、いわば何らかのこだわりを持って追求(探究)することが必要だということである。

この執念をもった探究とともに、物事を素直に捉えるという姿勢が必要になる。徹底的な探究心とともに柔軟な心が求められる。探究しながら、同時に目の前に現れてくる事実に対して謙虚に柔軟にその事実を受け入れ、自分の認識を発展させることが重要になる。これは、問題意識をもちつつ、その問題意識にもとづいて探究しながら、同時に探究の中で明らかになった事実に基づいて、自分の認識と問題意識を柔軟に変化させるということだ。

これは、言い換えれば頑固に問題意識をもちながら、それをテコに探究しつつ、事実の前では柔軟になって、自分の問題意識をも疑い、柔軟に変化させるということだ。頑固さと謙虚さは、この場合、一つのもののなかの2つの相反する側面ということになって、自分の認識の中で統一的に存在するということを意味する。頑固さと謙虚さ、柔軟さの統一ということだろう。

ぼくの場合、一般質問の準備によって、頑固さと柔軟さは身についてきた。とくに質問のテーマを決め、研究していくと自分の問題意識が、具体的な事実の前で変化していく実感があった。この自分の問題意識の、ときにはダイナミックな変化が、質問準備の中での楽しみになった。「なるほど、そうか、そういうことか」というような思いは、自分なりの新事実の「発見」だった。この新事実の「発見」は、新しいことを誰よりも先に発見したというようなものではない。自分にとっては「発見」に値するというものだ。こういう経験を積み重ねていくと、最初の問題意識が、事実の探究の前で柔軟に変化する。このワクワク感、この喜びは大きい。
このときの「発見」は、問題意識と柔軟さの統一ということだろう。これが自分の中で培われたことが大きい。こういうことを積み重ねていくと、自分の問題意識の変化が楽しみになってくる。それは、自分にとって「学ぶ」ということでもある。

弁証法の基礎は、客観的存在にある。この自分たちの意識の外に厳然と存在している客観的な物質が、一つの物の中に相反する二つの側面を併せ持っているので、客観的事物の反映である人間の認識も、物質の有り様を反映して、相反する二つの側面が一つの物の中に同時に存在しているということになる。

ここでいう弁証法的な矛盾というのは、2つの異なる側面が一つのものに中に同時に存在していて、それぞれの側面が事物を成り立たせる上で、どちらの側面も欠くことのできない関係によって結ばれているような矛盾のことである。存在を存在たらしめている矛盾というのが、弁証法的な矛盾のことである。
全ての物事が弁証法的な矛盾によって成り立っているのだから、その矛盾の統一として事物を捉えればいいなどとは言っていない。こういう捉え方をして、いとも簡単に弁証法的な矛盾を発見して喜ぶようなことは避けた方がいい。それは、多くの場合詭弁でしかない。

弁証法的な矛盾は、具体的な事物の具体的探究の中で得られる一つの結論であり、そうやって得られた結論が、さらに事物を探究する上で導きの糸ともなる。事物はそうやって連関の中で存在する。

事物がすべて弁証法的に成り立っていて、そのもとで人間の認識もあるということを深く知っているだけで、かなり人間はかしこくなると思われる。この弁証法的な捉え方も含め、人間は長い歴史の中で、論理学を発展させてきた。この中で組み立てられてきたものの見方を自分のものにするだけで、認識の仕方は変わっていくし、人間の頭は賢くなる。

帰納と演繹
現象と本質
原因と結果
一般と普遍
具体と抽象
文学で言えば典型と普遍

などのカテゴリーを深く認識するだけで、自分の論理の仕方は豊かになるだろう。こういうものの見方、考え方を身につけることが、頭のいい人間に成長する道につながる。本当の意味で頭がよくなりたいのであれば、論理学の基礎を学ぶのがいいということになる。

一つだけ展開してみよう。
現象と本質について。

全ての事物は現象している。事物がシンプルな形でそのものの本質を誰の目にも分かるように存在していることは極めて少ない。科学者は、絡み合っている事物の連関に分け入って、何がその現象たらしめている主要な要因なのかを探究していく。探究していくと、Aという現象はかくかくしかじかのものによって生み出されていることが見えてくる。しかも、そうやって見えてきた本質というものが、あっと驚く内容をもっている場合が多い。目に見えている現象と本質のギャップが人々を驚かせることも多い。

具体論として病気を例に挙げよう。ぼくは、8月末に、発熱と咳がでて、発熱外来を受診して、抗原検査を受けたら陽性反応が出てコロナ感染だと診断された。
今は、発熱と咳が出たらコロナ感染を疑うようになっているので、まずはコロナの検査をしようということになる。ぼくの場合はコロナ感染だったので、すぐに治療方針が確立したが、その検査でコロナ感染でない場合は、他の病気を探すということになる。
この場合の現象は、発熱と咳だ。コロナ感染でない場合は、8月末だったので夏風邪を疑ってみたり、他のウイルス感染を疑ったりするだろう。ことによっては、全く別の病気が潜んでいることさえある。

コロナ感染の場合、本質はコロナウイルスによる感染だということになる。現象と本質の関係とはこういうことだ。同じような現象はたくさんあるが、その現象を引き起こしている本質は何か、というところに科学の視点がある。
さらに弁証法に対して踏み込んで書けば、具体的な現象形態なしの本質はない。本質は必ず何らかの形で現象する。
端的に表現すると「本質は現象する」。この表現は、いわば一種の形容矛盾をはらんでいる。
事物は、絡み合って存在しており、それこそが事物の具体的な存在の仕方である。それらの事物は、さまざまな運動の絡み合いであるから、複雑に絡み合って存在している現象こそが、我々の目の前に存在する事物=物質ということになる。この現象形態なしに、抽象的な本質などはない。本質というのは、物質から抽象的に離れて導き出された認識ではなく、抽象的な概念にはとどまらない。現象という具体的な物質の中にこそ本質がある。本質は物質を離れて存在しない。これが弁証法が捉えた現象と本質の関係だ。具体的な現象の中にこそ本質が存在する。それが「本質は現象する」という言葉の意味だ。

現象と本質の関係を知っていれば、事物を探究するヒントが与えられる。現象形態はどういうものであって、本質はどこにあるのかというのが、一つの問題意識になる。
文学の場合、現象と本質の関係で、登場人物を描くときに、典型という形で描かれる場合がある。その時代に生きる人間の具体的な姿、極めて個性的な姿を通じて、その時代の姿を描くという形だ。作家の中にはそういうことを意識して書いている人もいるだろう。

この考え方は、一般質問にも生きる。
抽象的な議論だけでは、要求は実現しない。取材をして、かつらぎ町の施策の改善を求める場合、ただ単に先進的な事例を紹介しても変化は起こらない。具体的な事実を具体的に提示しながら、施策の発展を訴えるときに、具体的な事例の中から「典型」となるような事例を押し出し提示し、その生々しい事例をテコにルールの改善を求める。具体的な事実というのは現象でもある。生々しい現象の中に現れている本質をつかみ、具体的事実を通じて本質に迫る。そうすればルールの改善が見えてくる。こういう質問を実現するためには、現象と本質との関係の把握が必要になる。

頭がよくなりたいのであれば、アリストテレスが明らかにした哲学の方法、論理学を学ぶ必要があるというのは、こういう意味をもっている。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明