養老孟司さんの概念の話
「養老孟司さんの講演があるから行こう」
妻から提案があって、事前申し込みが必要な和歌山県生涯学習課主催の読者に関する講演会、「令和五年度読書推進フォーラム」に参加した。
記念講演会は午後2時から午後3時20分まで。養老孟司さんは、1時間20分、立ちっぱなしで講演を行った。テーマは「読むこと、考えること、生きること。」だった。すべてテーマに沿って話が進んでいく。
話の内容は、全編哲学の話だった。読むことの根源は何かというテーマで、根本的な話をすれば、言語とは何なのか、言葉はどのようにして成り立っているのかという話を含む。この話をした上で本を読むとはいったいどういうことなのかという話が成立する。養老孟司さんの話は、日本語の特徴から入り、英語との違いを語り、概念の話に移って行った。ぼくにとってはなじみの深いテーマだったが、新しい発見も多く存在するものだった。
養老さんは、日本語は動詞を軸に成り立っている言語であると語り(これがどういうものなのかという展開はしていただけなかった。養老さんが過去に書かれている本に言及があるのだと思ったので『唯脳論』を注文した)、英語は名詞を中心になり立っている言語だと語った。したがって英語は概念で成り立っているという話が展開して、an appleとthe appleのの違いを話された。1つのリンゴというのは、頭の中にある1つのリンゴであり、そのリンゴというのは具体的に目の前にあるリンゴのことだと話された。具体的な事物から導き出される1つのリンゴ。それは具体的なリンゴの複雑な要因を捨象しつつ導き出されるリンゴという物になる。
人間はこの概念の力なしに本を読むことはできない。本を読む行為というのは、文章を読んでそこに書かれているものを概念の力によって再構成する中で理解するということになる。ドストエフスキーの小説を読んでいて、頻繁に出てくるサモワールという湯沸かし器がどういうものなのか、まったく理解不能なまま小説を読んでいると、それだけで分かりがたい印象が尾を引いたことがある。サモワールはロシアの湯沸かし器で、かなりおしゃれな感じのものだが機能的には日本の「やかん」と同じ物だ。
人は、自分の中に蓄積している概念の力で文章から映像を頭の中にむすんで本を読んでいる。それは小説でも論文でも同じ。英語は名詞を中心に発達しているので概念も発達しており、壮大な概念の森のような状況にあると養老さんは語った。
英語やその他の外国語がもつ概念が、日本語には全く存在しなかったので、明治の文豪や学者たちは、日本語にない概念に翻訳後を充てて言葉を作り出すしかなかった(その中に権利という言葉もある。福沢諭吉はrightを権理と訳した。しかし訳語の統一の中で官僚はrightを権利に統一した。権利が権理でなくなったので、日本語には正しいという意味が言葉から離れてしまい、権利=利害と絡んでいるかのような印象を与える言葉になった。これは残念な例である)。
日本語は動詞が中心で、しかも音訓読みが法則性もなくできあがっているので、1つの漢字を幾通りにも読ませている。日本人でも読めない熟語がたくさんあり、読み方も1とおりでないことも多い。養老さんはこういう風に説明した。
英語は、徹底的に言葉ですべてを表現できると言いきり、日本語は、英語よりも言葉が豊かな側面があるのに、言葉ですべてを言い表すことはできないのだという。これは面白い指摘だった。
考えるというテーマも、生きると言うテーマも、哲学的な話が続いた。ぼくはこの話を聞きながら「科学は弁証法的な総括をまぬかれえないところに来ている」というエンゲルスの言葉を思い出していた。
日本語の言葉の場合、言霊というものもあると思います。また真言宗の真言も。
それは兎も角、私は個人的に日本語のロックミュージックを受け入れ難く、専ら洋楽を聴いています。英語の歌詞は本当に深く、時に哲学的文学的ですが、日本語ではそのような表現は困難なようです。ロックに限らず、オペラ等も日本語で演る場合、かなり言葉を省略しなければならないそうです。
例外として、Gシュミットというバンドの歌詞には感銘を受けました。カソリックという曲はこのような歌詞。
闘いは今まさにその火蓋を切って落とす。
黄金の民は何も信じられない。
素足には血が滲み、身体からは死にゆく者の匂いがした。
永遠の愛を勝ち取る闘い。
罪深き者の穢れを隣人の血で贖えば
こんな感じです。これを聴いて、日本語で言い表すことも、必ずしも捨てたものではないと思ったものです。
話はずれますが、日本の歌は、戦後、ある時期から訴えるという中身を失わされてしまったのだと思っています。若者のたたかいの武器の1つが歌でした。歌には、人々を共感させ、団結しあうだけの力をもっていると思います。だからこそ、若者からたたかいの武器である歌を外させるために、政治のない歌、訴えのない歌、政治や社会を語らない歌が主流を占めるようになったのだと思います。歌は何を題材にしても一向にかまいませんが、それであるならば、政治や社会の問題を歌う歌がもっと日本にもあっていいのだと思います。
そういう歌がないことが日本の異常さの1つでもあるかと思います。ミュージシャンや俳優が政治に触れた発言をすると、何も分かっていない者が発言するなというバッシングが起こりますが、歌や表現から政治が外されたことによって、政治家は、金権腐敗を謳歌できる状況になっているのだと思います。
全くその通りだと思いますが、日本語というものは、政府や権力による検閲を経ずとも恐らく歴史的に中身を失っているとも思われます。歌と言えば、先ず和歌です。此処では、ハレの文化が重視されて、ケや内省的なことは、不粋と忌み嫌われる文化のようです。遙か昔から。日本語にもパンクやハードコアは在って、政治的な歌詞を取り上げてはいますが、何かしらこう、しっくりこないんですよね。表現制約を受けずとも、太古からの歴史的なもののあはれ文化が、表現を殆ど困難にしているようなんです。ヒット曲と言えば、君に幸せあれ、とか、一寸常識では考えられないくらい、天皇崇拝ソングばかりだったりします。それは一寸怖い位、当たり前になっています。矢張り日本語は構造的にか、表現の難しい言語であるようなのです。
60年代反体制フォークソングの撲滅とかあった訳ですかね。矢張り政治が変われば、日本語の歌も改善されるのでしょうか。一寸怖いとか言ってないで、改善を願うべきなのでしょう。
歌といえばまず和歌です。というのは面白いですね。なるほど。和歌(短歌)は、俳句と違って情緒を込めることができますね。この短歌に政治を込めて歌った人の一人は、石川啄木だったと思います。「朝鮮半島に黒々と墨を塗りつつ秋風を聴く」という歌もありました.同じ五七五七七でも川柳がありますね。これは庶民による政治への批判が込められています。最近、朝日新聞に、「赤旗に白旗揚げる自民党」というのがありました。
ぼくは20歳代、現代詩を書いていました。自由詩と呼ばれる現代詩は、政治的批判を数多く含むもので、社会をどう描くかというのが、ひとつのテーマでした。たたかいが弱いなかで、文学や歌があると思います。たたかいの高揚のなかで新たな文学や新たな歌が起こることを期待したいと思います。