客観報道なんてない

雑感

戦争とは、憲法に対する攻撃だという指摘がある。第二次世界大戦の結果、国連憲章が生まれ、世界人権宣言が発せられたのは、人間の歴史には、発展の法則があることを示すものになった。この動きと歩調が合うかのごとく、日本では、大日本帝国憲法の一部改正が行われ、この憲法の論理的な枠組みに従って、日本国憲法が誕生した。全世界は、戦後、次第に基本的人権とそれぞれの国で国民主権を人類共通の理念として共有する方向へと動いている。

植民地主義が基本的には崩壊し、植民地が解放され、独立国が誕生したのも、人類史には発展の法則があることを示している。植民地主義に対しては、何百年前の出来事だったとしても、その「罪」に対する責任を取る方向で動いている。

こんなことを冒頭に書くのは、客観報道について書きたいからだ。
「事実を主観を交えないで伝える」ことがあたかも客観報道だという見方がある。これに対しては否と言いたい自分がいる。
マスコミが報道を行うときには、表現の自由をもとに、国民の知る権利に応える役割を果たさなければならないと考える。

その際、どう報道するのかという、マスコミの拠り所は、日本国憲法にあると考える。日本国憲法の前文と12条、97条には次のように書かれている。

これらの規定を、人類が戦争を含めた苦難の歴史の中で勝ち取ってきたものとして、マスコミの原点として守り、報道を行うことが求められる。国民主権を守り、国民の知る権利に応え、日本国憲法を拠り所にして、報道を行うことが求められている。それが、国民に真実を伝える力になる。これらの原点を守るために、マスコミは政府の取っている態度に対して、踏み込んで報道しなければならない。

本当は客観報道なんてない。人間は必ず、脳というフィルターを通じて、事物を判断する。従って必ず脳という主観的なフィルターを通して事実を把握する。客観報道という名の下に対立している問題に対して、政府の言い分、野党の言い分、国民の声を収集して報道すれば客観的報道になるのかというと「違う」と言わなければならない。
しかも、問われているのは「客観報道とは何か」という抽象的な議論ではない。
政府は、大きな影響力を持っているNHKや民放テレビなどのニュースに対して、政府の主張が正しく把握されて報道されているのか、徹底的にチェックして、意見を述べるようになっている。この政府からの意見に報道が左右されている。そうなると、力とお金を持っている「権力」に気を遣って報道するようになる。しかも現実にそうなっている。本当は、圧倒的多数の国民の主権を守るために報道し、事実を伝えなければならないのに、マスコミの報道は「政府広報」に成り下がっている。

マスコミは、日本国憲法が体現している国民主権と基本的人権を守る、恒久平和を守るという憲法3原則や地方自治、議会制民主主義を守るという立場に立って、国民主権を貫くために、報道を行わなければならない。こういう原則に立てば、マスコミは現代憲法である日本国憲法の基本的なスタンス、「権力の手をしばる」という役割も見えてくる。マスコミの原点の一つは権力の監視だと言われるが、この原点も日本国憲法の原則から導き出される。

上に書いたような視点に立てば腹は座るのではないだろうか。政府の言い分と野党の言い分、国民の声を取材しつつ、問題となっているテーマの本質はどこにあるのか。これを明らかにすることが、国民の知る権利に応えることになり、表現の自由を守ることにもつながる。巨大な権力とたたかうためには、覚悟が必要だ。

もちろん、権力の側にすり寄って、一生懸命政府の言い分を代弁して報道するのも、表現の自由という点では許される。だがそれは国民主権に立った報道とは呼べない。この流れに異を唱えて、反権力の立場で真実を探求する報道が必要だ。この立場は、当然マスコミが取るべき重要なスタンスになる。

「しんぶん赤旗」は、人類の歴史の発展を深く確信し、日本国憲法の原則の具体的な実現をめざしている日本共産党の綱領に立脚して報道を行っている。日本国憲法の諸原則を発展させるために報道しているという点で言えば、他のマスコミも「赤旗」のように報道できるはず、という点では同じだと思われる。ただ、今の時代の中でこのスタンスを貫いているメディアが少ない中で、「赤旗」が果たしている役割は極めて貴重なものになっている。

マスコミは、日本国憲法の精神に立って、真実を明らかにせよ。権力に負けるな。国民に依拠せよ。


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雑感

Posted by 東芝 弘明