ひと欄から考えたこと

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赤旗日曜版の一番最後のページは、「ひと インタビュー」と「うれしい一品」という欄になっている。
この「ひと」欄の文章は秀逸だ。インタビューにもとづいた文章だが、取材相手の言葉が文章にとけ込むように書かれている。○○さんはこう言ったというような文章はない。本人の手記のような書き方もしていない。人の紹介文なのだが、取材相手が話した言葉と地の文が渾然一体としている。文章にもムダがない。
今週は、増田明美さんが登場した。
ロス5輪でマラソンに日本代表として出場し、途中棄権となった。バッシングが待っていた。
ロス5輪出場が決まると町が壮行会を開き、人々が激励金を渡してくれた。5輪後、両親は、「ごめんなさいね。娘が活躍できなくて」と、一軒一軒お金を返して回った。
この話を読んで涙が溢れそうになった。
なんだか、円谷幸吉のことを思い出した。
日本のマラソン選手はまだ、背中に日の丸を背負っているのだろうか。
がんばって走った選手の努力を感じ取れる感性がほしい気がする。
アメリカ映画でフットボールの試合に負けた高校生を非難するシーンを見た。地域の誇りを担ってたたかう選手たちへの期待が強いだけに、負けたときのバッシングも大きい。
しかし、それでも日本とは違うような気がする。
激励金を返すことにはならないのではなかろうか。
先日、アメリカで住んでいた友人に質問された。
「2歳の子どもが悪いことをした。責任は、親にあるのか、子どもにあるのか、それとも親と子どもにあるのか」
「親にあると思うけど」
「なぜ」
「小さいから」
「やっぱり東芝君も日本人やね。アメリカ人は、100%責任は子どもにあると考えるよ」
「うーん。そうなん。なるほど。人間は、一人一人。Personなんやね」
自己責任の話のようにも聞こえるが、人間の尊厳や権利を徹底的に認めているというようにも感じる。
アメリカ人は、子どもをしかるときに、
「お前のした行為は許せない。改めよ。しかし、お前はいい子なんだよ」というしかりかたをするという。「バカ、あほ、おたんこなす」というような人格否定のしかり方はしないようだ。こういうしかり方があるからこそ、「しでかした罪は子どもでも、100%子どもにある」ということになるのだろう。
日本人は、たとえば「子どもがなぜ非行に走ったのか」という問題を追及したとき、親が悪かったら、「あんな親の元で育ったのだから」というような見方をすぐする。
しかし、これは大きな間違いをはらんでいるのだという。たしかに、そう言う親の影響を受けて子どもが悪くなる場合はたくさんある。しかし、親が悪いからといってそうはならないケースもたくさんある。反面教師という言葉があるように、悪い親と向き合うことがある。
人は、自分に降りかかってくることに対し、どのように向き合うのかという主体的な関わり方ができる。
このような考え方の中にも、人は人として尊重される。Personとして認められるという考え方が入っている。
リテラシー(情報を読み解き活用する能力)、つまり言い換えれば、物事の本質を見抜き批判的に学ぶ能力という考え方が大事だということなのだと思う。


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Posted by 東芝 弘明