道徳についての再考

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道徳について、昨日書いたことがどうも心に引っかかっている。
日本の学校教育の中で、道徳の授業がおこなわれている。しかし、国民をとりまくモラルの問題は、年々悪化しているようにさえ感じる。
新自由主義的な構造改革の中で、資本の物神的性格が極端に際だち、金が金を生み出すマネーゲームが横行し、お金が儲かればいいという風潮が日本全国に蔓延していった。その一方で、競争社会が激化し、資本の側に富が蓄積し、その対極で貧困が拡大することによって、格差が拡大していった。
子どもをめぐる社会でも、受験競争は緩和されず、より一層競争が激化していった。少子化が進行し、目に見えて子どもの数が減っても、不思議なことに高校受験でさえ、競争はなくならなかった。
僕らの子どもの時代と同じような定数が、各高校に保障されていれば、高校受験は、ほとんどの高校で定数割れの状況になったはずだ。
和歌山県の教育委員会は、そういう状況について、全面的に判断できる状況にあったにもかかわらず、定数を子どもの数の減少にあわせて減少させ、意識的に競争を組織した。
ぼくが、笠田高校に進学したとき、1学年の学級数は、7クラスあった。1学年の生徒数は、300人を超えていたが、現在の笠田高校の1学年の定数は200人。ぼくたちの時代よりも100十数人定員が減少している。
高校進学が当たり前になり、準義務教育化しているにもかかわらず、希望校への全入は実現していない。
少子化によって、学校規模と生徒数の間に大きな開きができたのだから、入学を希望した生徒は、希望した学校に全員入れるようにできたはずだ。また、学校間にあった格差については、和歌山県教育委員会が、学校間格差をなくすために、地域ごとにある学校が充実するように取り組み、地元の子どもたちは、地元の学校に進学しようという努力をおこなえば、各学校の学力差は縮まり、どの高校に進学しても、希望の大学をめざして勉強ができる条件が実現したのではないだろうか。
高校受験から競争をなくしても、大学受験というシビアな競争があるので、根本的には、教育条件は変わらないが、小・中・高という18年間の教育を通じて、和歌山県の子どもたちを、学力豊かに人間性豊かに育てる道は、あったように思う。
しかし、現実は、まったくこれとは逆の方向に進んでいる。競争は解消されなかったばかりか、学区制が緩和されて、なくなってしまった。
ときどき7時台の電車に乗ることがあるけれど、電車の中には、さまざまな学校の制服を着た生徒が入り交じっている。橋本の子どもが笠田へ、笠田の子どもが橋本へというように、相互乗り入れのような様相になっている。
ぼくたちが、まだ20歳代だったとき、大阪はすでに高校受験ともなると、スライスハムのように、中学生がバラバラに振り分けられていた。同じ中学校から同じ高校に進学する生徒は、数人程度だった。
友人関係は、きわめて小さく、きわめて薄い。友だちなんて一過性のもの、といわんばかりの受験体制だ。
大阪で80年代、すでに実現していたことが、和歌山県でも起こりつつある。
最近、橋本高校に中高一貫の制度が誕生し、古佐田丘中学校が設置された。もののみごとに橋本駅前は、塾だらけになった。眺望320度ぐらいが、塾で埋め尽くされている。生徒獲得のシーズンになると、塾のコマーシャルが新聞に折り込まれる。折り込みチラシを見ると、古佐田丘中学校合格率100%という宣伝文句が目に飛び込んでくる。
すさまじい。
高校受験のストレスが、ぼくたちの時代以上に増大している。この状況をつくりだしたのは、和歌山県教育委員会だった。つまり競争の仕掛け人は、分別のありそうな大人であり、競争の総元締めは、人間皆平等を建前ではうたい文句にしている和歌山県教育委員会だったということだ。
“過度の競争を組織した教育制度は改善されるべき”
これが、国連による日本の教育に対する評価である。
受験という脅迫的なプレッシャーのなかにおかれている中学生たちが、伸び伸び、生き生き自由に育つような条件があるだろうか。
道徳心を育むためには、一人一人の人間が、他人との比較で評価されず、互いの価値をお互いに認め合い伸ばしあう条件が大切だと思う。しかし、日本の教育体系の背骨として存在している受験競争の弊害があるかぎり、一人一人の子どもたちは、他人と比較され、点数で評価され、区別され、時には差別される。
この状況の中で、他人との関係を競争の中で考えるなとか、思いやりの心をもとうとか言っても、それは著しい欺瞞にしか聞こえないのかも知れない。
ぼくたちの世代でさえ、他人と自分を比較するような目が、たえず自分の中で頭をもたげてくる。英国数社理の5教科の成績、しかもペーパーテストでおしはかられる成績で優劣がつけられる。勉強以外で生き残る道は、スポーツだろう。スポーツに秀でた生徒が、この能力を生かして進学していく。勉強もスポーツも本来の喜びから乖離して、目的達成の道具や手段になっている。
人間は、人間を育てるはずの学校教育の中で、リトマス試験紙にかけられて、振り分けられ、進みたくもない進路を選択させられている。学問は、本来、人間の人格の完成をめざすものだったのに、勉強嫌いの生徒をたくさん生み出して、学ぶ喜びを子どもたちから奪っている。
道徳が大切なのだというのであれば、人間の倫理が文字どおり実現するような教育の体制をつくる必要がある。人間の倫理が否定されたり、それと逆行するような教育体制をつくって、道徳心を説くなどという行為は、教育を歪めるものでしかない。
安倍総理は、しきりに規範意識の涵養などというような言説を唱えていたが、自分の内閣のさまざまな大臣が、社会的な規範を踏み破って、変な政治資金の使い方をしても、責任ある態度をとることはほとんどなかった。規範を守れない内閣総理大臣が、規範を説き、守ることの大切さを語っても、それは欺瞞にしか聞こえなかった。
これと同じような、図式が現在の学校教育の中には存在しているのではないだろうか。
教育から競争をなくして、学ぶ意欲に支えられた豊かな教育を実現し、学ぶ意欲に支えられて大学を受験するように制度を変えるためには、大学を誰もが入りやすいものに変える必要があるだろう。入学はできるけれど、卒業は難しいというシステムを外国のように作り、大学が学問とその研究をおこなう場所に変えれば、小学校から高校に至るまでの教育制度は、大きく変化するだろう。
そのような教育制度が実現すれば、道徳と学校の制度は綺麗に重なり合い、モラルが本当の意味で、社会的な規範になるように思う。
豊かな道徳心を身につけるためには、社会の制度やさまざまな問題を反面教師として受け取らなければならないのは、大きな不幸だと思う。
モラルがまだ十分自分の生き方の基本に座っていない子どもや生徒が、モラルを身につけるためには、身の回りの現実を反面教師にしてとらえ直すというのは、基本が身についていないのに、いきなり応用問題に取り組まなければならないというのに等しい。
救いは、小学校にある。小学校はまだ、受験競争に絡め取られていないといえる。小学校時代に、豊かな人間性の基本を学んでいけば、競争のただ中に投げ入れられても、強くしぶとくがんばれるかも知れない。人間は信じるに値する。友だちはなによりも大切だ。教師は信頼に値する人間だ。などなどの思いを小学校は、子どもたちの中に育ててほしい。
小学校も中学校も、本当は人格の完成をめざす場として存在している。
学問は、ヒューマニズムという名の木の幹にくっついてこそ、豊かに育つ。学問の意義が、まっすぐに理解されないような現在の教育体制は、人間を育てるシステムとして、制度的な疲労のただ中にある。
道徳教育に胡散臭さや欺瞞的な匂いを感じるのは、教育制度が、かなりどぎつく道徳性を否定しているからだろう。現実をみないきれい事は、事実を直視しない人間をつくる。
ほかのすべての時間では競争をしいているのに、道徳の時間だけ、みんな仲良くと説くのは、ほんと、胡散臭い。
昨日の論考よりも、今日の論考の方が、かなりまとまって書けた気がする。


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Posted by 東芝 弘明