道徳について

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道徳について、集金先で話になった。
一般的な規範を教え込むのは、いかがなものだろうか。
人間はこうあるべきだという一般的な道徳を教え込むことについては、大きな疑問がある。一般論を教え込むのは、害悪であるとさえ考える。
道徳、倫理、モラル、これらは同じ意味に解されている。
道徳は、生々しいものであり、すべての人が具体的に物事の選択を問われたときに、たえず試され続けるものではなかろうか。その意味では、人間の生涯を通じて、くり返し問われ続けるのが、道徳だろう。
政治家が贈収賄をくり返したり、社会的なモラルが欠如したとしか思えないような事件が頻発しているのに、そういう問題とは、まったくリンクしないで、人間はこうあるべきだというような一般論を教え込むのは、人間形成にとってプラスにならない。
社会のなかにある矛盾に満ちた諸問題に向き合わないで、綺麗な道徳を説き続けると、それは「偽善」や「欺瞞」にしか思えなくなってくるのではないだろうか。
人間は、社会的な存在なので、自覚しないうちにさまざまな影響を受けて生活している。矛盾に満ちた世の中で、たくさん発生しているさまざまな問題に関わって、どう向かい合うかを考えたり、行動したりしないと、命をもった道徳は身につかない。ぼくはそう思う。
社会的な諸現象や諸問題と切り離されたところで、道徳をいくら唱えても、それは教え込み出しかなく、人間が生きていく本当の力やモラル(規範)にはなりえない。
学校の中で繰り返されている道徳の学習は、どうも一般論的すぎて、子どもたちの生きたモラルになるのかどうか、大いに疑問があるということだ。
道徳は、本来、人間はどう生きるべきなのか、という哲学の根本的な問いと深く結びついている。道徳は、人間と人間、人間と社会、人間と自然などの関係の中で、生まれてから死に至るまで、たえず具体的に、投げかかられている大きな問いなのだと思う。
ただ、道徳は、考え方だけの問題ではないようにも思う。
考え方の以外の道徳とは、人間の所作や行為と深く結びついている。躾によって道徳心を身につけるということが、昔からおこなわれていたが、これは、人間が生きる上で、かなり意味の深いものを含んでいる。
しかし、躾には、教え込むようなニュアンスがある。これが、マナーという言葉になると教え込まれるイメージがなくなる、躾もマナーも、どちらも礼儀作法という意味の言葉なのだが、この2つの言葉には、ニュアンスの違いがある。
礼儀作法の中には、まわりの人々に対する思いやりと自分の立ち居振る舞いを綺麗にするという意味がある。礼儀作法の意味をよく理解して、それを身につけていく努力は、道徳心を実際の行為を通じて身につけていく意味をもつように思う。
日本は、形から入って作法を強制的に教え込む傾向が強かったので、躾に反発したり、形からはいる礼儀作法に対する反発がある。しかし、形から入りつつ、礼儀作法を身につけて、考え方を会得していく道はあるように思う。
ただし、マナーを身につけても、大きな意味でどう生きるか選択が問われるときの道徳の問題には、対処できない。この2つは次元の違う問題だろう。
うーん、考えが綺麗にまとまらない。


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Posted by 東芝 弘明