子どもたちとともに親も育ってきました
笠田中学校の卒業式は雨だった。今年の卒業生は65人。ぼくたちの頃と比べると120人ほど少ない。
旅立ちの瞬間に立ち会わせてもらえるのは嬉しい。この1年間で3人の保護者の方が亡くなったという。卒業する子どもたちの姿を見たかっただろうと思う。
子どもたちは、親の生きてきた歩みについて思いがなかなか及ばない。少なくともぼくはそうだった。
子どもが、親の姿に気がつくのは、自分が親になったときなのかも知れない。親としての苦労や努力、喜びや悲しみの中で、自分の親の姿を再認識するということなのだろう。
子どもにとって人生は初めての経験だが、親は、子育てをしながら、親という初めての経験を積み重ねて、次第に親になっていく。
親が子どもに対して、わかったような口を利くのは、自分の生きてきた道をふり返って、当時のことを思い出し語っていることが多い。
でも自分の生きてきた道は、たった1本の細い道だから、その経験だけで、子どもに人生を語るのは、かなり危ういのではないだろうか。
卒業式のあいさつのなかには、神のような視点で人生の教訓を語るような話がある。成人式にもある。今日のあいさつには、こういう感じのものはなかったけれど、精一杯背伸びをして、全知全能の神様のように教訓を語るあいさつに出会うと、「ふーん」と思ってしまう。
背伸びをしないで、身の丈にあった自分をみつめながら、子どもに向きあいたいと思っている。
人間は、一度だけ人生を生きる。52歳の自分は今しかない。人生はいつも新しい航海をはじめる船乗りに似ている。初めて体験することに戸惑いながら年老いていく。年を重ねるというのも初めての経験になる。何年たっても分別ができず悟りを開けないのは、人生がいつも「未知との遭遇」の積み重ねだからなのかも知れない。
人生の舵取りは難しいが、時代の流れを読むことは、人生の選択よりもやさしいかも知れない。人生の選択が難しいのは、自分が当事者だからなのかも知れない。事件の渦中にある場合は、物事を俯瞰して見れない。視野や視点が状況にくっついてしまう
時代の流れを読むことは、人生の選択よりもやさしい。そして、時代の流れを読み解いていけば、人生の選択の役に立つ。そう思っている。
時代の流れを読み解くとはどういうことだろうか。
歴史を知り現在と現代を分析し、そこから発展する方向を見すえていくと、諸問題に対してとるべき態度が見えてくることがある。自分だけの体験は、細く小さいものだが、人間が歩んできた歴史や培ってきた学問を学んでいけば、細い体験を補い、少しは深く幅の広い視野を身につけることができる。そこから得られた認識と判断によって、時流に流されることなく、自主的に判断する体験を重ねていくと、それは自信につながっていく。
過去のある瞬間に自分がとった態度が正しかったかどうかは、一定の時間が経ってようやく見えてくることが多い。ふり返ってみて、自分がとった態度が、正しかったという体験は貴重なものだと思われる。「よくぞ、時流に流されずそういう判断をおこなえた」という感じがする。
情報が操作されている時代のなかで、情報が洪水のように一つの方向性をもって流されることが多い。「劇場型」と呼ばれる政治が展開されるようになってから、洪水のような情報を一方向に流す傾向が強まってきた。
ときに人は、この時流に流されていく。「賢い人」の中には時流を利用して流れに乗る人もいる。
このような生き方をするのではなく、時代の本質を見抜き、ときには時流にあがらいながら、逆風に立ち向かうような判断をしたい。
空気を読むために気を使っている人が多いけれど、空気を読むだけではなく、さらに突っ込んで空気の流れを読み解いて、空気の流れの本質をつかみ、どうすればこの流れを変えることができるのかを考えることのできる人間になりたい。
このように時代の流れを読み解いていけば、難しい人生という航海をおこなう力になる。ぼくはそう信じている。
卒業式でさわやかな別れの涙に春の芽吹きを感じながら、こんなことを考えていた。