自分の中にある書き手と読み手のコラボ

雑感

雨がよく降るようになってきた。
かなり眠たい目で書いているので、意識が、画面から離れそうだ。
以前、朦朧とした中で記事を書いていたことがある。途中から何を書いているのか分からなくなった。

そうそう、
文章というものは書きながら考える。それが文章なる。したがって、書き始めた文章をくしゃくしゃにして、もう一度最初から書き始めると、もうそれだけで同じ文章にはならない。書いた文章に引きずれれて思考が展開していく。自分が書いた文章によって、思考が展開しはじめるので、その時に書いた文章は、寸分違わないで再現することはできない。

時々さまざまな作家が、登場人物が勝手に歩き出すとか、物語が勝手に動き出すとかいうようなことを語ることがある。自分の意識の外に文章を吐き出していくと、誰よりも先に自分自身が読者になる。しかもこの読者は、直接リアルタイムで作家に意見を言い、ときには作家の抱えている問題さえも明らかにして、直接作家に影響を与えていく。
文章を書く行為は、書き手と読み手の対話という側面がある。この場合の書き手と読み手は渾然一体とした自分なので、対話も無言の内に進行していく。

今日はここまで。
こういう訳の分からないことを書くのは、若干書き手と読み手に分裂した自分との対話のなせる技だろう。今日のことで言えば、自分で掃きだした文章をぼくが読者としてみるということに気がついたので、論理が展開した。このようなへんてこな入り組んだことを考えたのは、文章を書いている自分の中にある、眠たくて意識がもうろうとしてきたという、文章には現れない精神構造が土台だったりする。眠たいときの文章は難しい。書くのが難しいのではなくて、文章に切れがないので、難解なのだ。
もしかしたら、過去のさまざまな、超難解な文章は、作家が眠たくて意識がもうろうとしていたために起こったものなのかも知れない。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明