千島列島と北方領土

雑感

一般質問用に作成する傍聴人用の資料を作って議会事務局に持っていった。かつらぎ町議会は、傍聴者の方に議員作成の質問用資料を配付できるようになっている。これは、いかに分かりやすく質問するかということを具体化したものだ。

夜は、かつらぎ町育成協議会の会議があった。
少し驚いたことがあった。
受付で北方領土返還の署名が置かれてあり、配布されていた。和歌山県庁内に事務局があり、文書は伊都振興局から伊都父母の会へ、そしてかつらぎ町青少年育成協議会へ届いたものだった。ぼくは簡単に「全千島を返せ」というのが正当な要求だと説明し、この北方領土というのは、歴史的には根拠のない要求だと説明した。

領土問題がホットな話題になっているので、「北方領土」問題について少し書いておこう。
南千島は1855年の日魯通好条約で日本の領土となった。その後この条約は、さまざまな形で上書きされた歴史があるようだ。しかし、平和的にかつ明確に千島列島が日本の領土になったのは、明治維新の1868年から7年後に締結された千島と樺太を交換する千島樺太交換条約だった。それまで樺太は雑居地扱いだった。
1904年日露戦争がおこり、日本が勝利した結果、ポーツマス条約によって南樺太(サハリンの南半分)は日本の領土となった。
次にこの関係を打ち砕いたのはソ連だった。ソ連は、日本参戦以後、領土拡大主義をむき出しにして千島列島を占領した。ソ連による戦闘は1845年8月15日以後も行われ、9月2日〜4日には、ソ連は北海道の一部である歯舞、色丹の2島を占領した。
この関係を固着させたのが、1952年のサンフランシスコ講和条約だった。この条約で日本は、沖縄、小笠原、奄美をアメリカの施政権のもとに置くことに合意し(3条)、千島列島に対する請求権を放棄した(2条c項)。

ただし、歯舞・色丹島は北海道の一部であり、千島列島ではなかったので、この2島をソ連が占領する根拠はどこにもなかった。歯舞・色丹は、国際的なルールからいえば、ロシアによる法的根拠のない占拠が続いていることになるので、直ちに返還を求めなければならない。
「北方領土」という呼び名は、歯舞・色丹・国後・択捉の4島を言い表すのに考えられた呼称であって、日本が便宜的に名前を付けたというほかない。

サンフランシスコ講和条約は、さまざまな問題をはらんでいた。戦争に参加した国がすべて加わって戦争を終結させるのが講和条約だったが、アメリカ主動の講和条約は、単独講和条約と呼ばれたように、戦争で被害を受けた多くの国々が調印しないものだった。
ソ連も調印しない国の一つだった。

日本政府が要求した4島返還は日ソ交渉の中で突然政治的に出されたものだった。
国交樹立を最大の焦点とした日ソ間の協議は、1955年の6月1日からはじまった。この協議では、ソ連が日本の軍事的中立化を主張し、日本が千島と南樺太、歯舞・色丹の返還及び北方への漁業権やシベリヤで強制労働をさせられていた抑留者の送還を主張した。
この協議の中でソ連は、色丹島・歯舞の日本への返還を示唆した。
これが実現していれば、少なくとも歯舞と色丹は日本に返還されていた。しかし、日本政府は、この協議の最終段階で、国後・択捉の返還を突然求めた。これは突然の政治的な変更だった。
それでもソ連は、友好条約の締結という条件を付けたものの歯舞・色丹の返還を認め、1956年の日ソ共同宣言にこのことが盛り込まれた。

千島問題は、日本政府が利用してきた側面がある。ソ連とアメリカが冷戦状態に入っていた中で、アメリカの圧力が日本に加わった結果、根拠の薄い北方4島返還という要求が形成されたという見方をしている人もある。

日本共産党は、戦争によらないで領土の境界を決定した千島樺太交換条約にまで立ち返って、日本の領土の返還を求めるべきだと主張している。そのためには、サンフランシスコ講和条約が、戦争終結の原則であった領土不拡大の原則に反して、ソ連が武力で奪ったものだということを明らかにし、2条c項の無効と破棄を求めなければならない。
千島列島を政治的なかけひきに使うべきではない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明