朝4時に無事起きた
朝4時、議員の氏岡君から電話があり、飛び起きた。
新聞配達に行って5時10分前に朝起き会の会場に着いた。
もうかなりの人が会場に入っていた。後ろに椅子の席があり、前半は畳の間に正座して並んでいた。椅子に座ろうとすると、「元気な方は前へ」と促されて、正座することとなった。始まる5分前に氏岡君が入ってきて、ぼくの後ろに座った。
5時きっかりに会が始まった。
会長先生と呼ばれる方の記念講和のテープを40分ほど聴いた。幸田露伴の努力についての話を中心に努力することの大切さを語るものだった。自利ではなくて利他についての重要性を語る話だった。
努力をおこなうこと、努力を行った結果について、他人のせいにはしないこと、利他のために働くことというお話で、王貞治さんや大鵬さんの話が紹介されるものだった。幸田露伴の努力についての話は、一度読んでみたいと思った。
そのあと、何人もの方がこの話に関わる話を前に立って行った。
6時に会が終了してから、男子壮年会の座談会があるということなので、氏岡君と2人残ることになった。
テーマは努力について。
車座になって一言ずつしゃべることになったので、氏岡、東芝の順番で話をさせていただいた。
朝起き会は、毎日朝5時から6時の1時間、集まって会員の話を聞くという集まりで、毎日欠かさず参加している方もたくさんいらっしゃる。女性の方の中には、ぼくよりも若い方もいる。今日も小さいお子さんの子育て中の方が前に立って話をしていた。
午前10時集合で吉野に行った。今日は友人たちとの花見だった。車1台で行った。昔からの友人たちだったので、気の置けない集まりだった。年を忘れるという感じだった。
吉野山の桜ももうほとんど終わりだった。中千本から奥千本に移行と歩いていると、「奥千本も同じような感じですよ」(あとでネット検索してみると奥千本は7分咲とあった。もしかしたら奥千本は見頃だったのかも知れない)と言われたので、中千本の途中にあったトタン屋根の休憩所のようなお店に入ってお昼ご飯にした。谷を降りて谷を登ってという地形だったので、谷川を挿んだ両側の斜面には桜の花がたくさん咲いていた。でも残っている桜はほんのわずかなものだった。吉野山の桜のほとんどは、白山桜だという。桜の花が散り始めると茶色い葉が芽吹き始め、それが次第に青くなっていく。
ときどき、その桜を眺めながらお昼ご飯を食べることとなった。車の中ですでにビールを2本飲んでいたので、坂道を登ったり降りたりすると息が切れた。吉野山の街道まで登らずに、このお店から上に登ることはしなかった。おでん、きつねうどん、椎茸の天ぷら、柿の葉寿司、葛餅を食べた。アルコールの持ち込みOKだったので、宴席となった。参加者は、話に花が咲いて、十分満足したようだった。
帰り道の途中、かなり険しい斜面を降りて、斜面の途中でテーブルを広げ、椅子を広げて残ったアルコールを飲むことにした。
桜の花びらが、風に吹かれて、蝶のように舞い落ちてきた。たった一度だけの花吹雪だったが、今年の桜の花の見納めとしては、趣があった。
「人生の中で今日の花見は一番といってもいいほど楽しかった」
車の中でI君がしみじみ言った。年輪のある言葉だった。笑いが弾けた。
そういう楽しい花見だった。
長い一日でしたね。
自利より利他が大切との幸田露伴の書物があるのでしょうか?私も読んでみたいと思いました。
そして、東芝さんの吉野山での、暖かなあふれるような幸せな情景の表現に、私も幸せな一日を終えることができました。
幸田露伴の本に「努力論」というものがあります。岩波文庫から販売されています。
インターネットの検索サイトに「幸田露伴 努力論」(「」は不要)と入力して検索すれば、青空文庫版の「努力論」が読めます。ぼくは少し目を通しました。
自利よりも利他という話は、幸田露伴にはありません。これは、朝起き会の会長さんのお話に出てきたものです。利他には、「自分を犠牲にしても他人の利益を図ること」という意味があります。幸田露伴の努力論を引きながら、会長さんは、朝起き会の教えである利他の精神を説いたということです。利他の精神は、綺麗ですが、少し滅私奉公的な色合いを感じます。謙虚さを感じますが、自分の幸福は後回しという感じです。人間は、なかなか利他の精神には立ちきれません。立ちきれない人間に対し、利他の精神を説くのは、永遠のテーマを投げかけているということなのかも知れません。
幸田露伴の「努力論」は、幸福論とつながっており、幸福三説(惜福、分福、植福)を説いています。この考え方は、利他とは違うようです。努力をすることによって幸福になるということですが、幸田露伴は、福を取り尽くしてしまわないで惜しむこと=惜福、福を他人に分けること=分福を語りました。そしてさらに植福を語りました。植福は難しい言葉なので幸田露伴の文を引用しましょう。
「植福とは何であるかというに、我が力や情や智を以て、人世に吉慶幸福となるべき物質や情趣や智識を寄与する事をいうのである。即ち人世の慶福を増進長育するところの行為を植福というのである」
これは、「国民の現実の苦難の軽減」という日本共産党の立党の精神と重なります。
幸田露伴は、「自分を犠牲にしてでも他人の利益を図る」という考え方をうちだしてはいません。マルクスは、18歳の時に「社会一般のために立ち働くことによって自らを高める」と書きました。この考え方と幸田露伴の考え方は繋がっているようです。ここには、自分自身の幸福と社会の幸福の統一があります。利他とは違いますよね。
ぼくは、こちらの方が好きです。
幸田露伴の「努力論」は有名な書物のようです。朝起き会でのお話は、幸田露伴の努力論の一部を紹介したということのようです。
教えていただいたネット検索で露伴の努力論を、難しくて書き出し部分の少しだけですが、読みました。
間接の努力は準備の努力である、に、思い当たることがあるなあと、思いました。
直ぐには成果は見えなくても、いつかは自分自身も含めて多くの人たちの幸せにつながる、ですね。
過程を楽しみながら、出来ることをしていきたいと思いました。
ありがとうございました。
ぷぷぷぷぷ。