戦争一般の否定こそ日本国憲法の精神

雑感,政治

従軍慰安婦の問題を考えている中で、戦争を否定した日本国憲法第9条について、あらためてかんがえはじめている。戦争は、小競り合いが高じて戦争に至るというものではない。小競り合いは、戦争を始める出発にすぎない。戦争は、もっと政治的に、用意周到に行われるものだ。とりわけ、戦争をしかけた国においては。
日本の第二次世界大戦に至るプロセスは、このことを雄弁にものがたっている。
日中戦争のさなかに、日本政府は戦費調達のために特別会計を組み、太平洋戦争に備えていた。この特別会計は、当時すでに行われていた日中戦争には、ほとんど使われなかった。日本は止むに止まれぬ戦争に突入して行った訳でも、日中戦争の泥沼の中で勝機もなく太平洋戦争廼引き金を引いた訳でもない。

アメリカ、イギリスとの戦争を計画して行ったときに、日本の軍事力はアメリカを上回っていた。アメリカに勝つためには、アメリカが戦争への準備体制が整っていないうちに、緒戦で勝利をおさめ、一気に勝利を勝ち取るという作戦だった。

戦争は、極めて大規模に行われる。日本は侵略戦争をしかけた加害者だったが、同時にアメリカによる無差別爆撃を受け、原爆を投下された被害者にもなった。日本が体験した第二次世界大戦は、この加害の責任、被害の過酷な実態というように、多面的な側面をもっている。
アメリカによる無差別爆撃や原爆投下という犯罪は正当化できない。当然日本がアジア・太平洋で行った侵略戦争は、正当化できない。
戦争は、国内の問題では、国民主権と平和を求める反戦運動や思想を徹底的に弾圧した。日本政府によるこういう行為も正当化できない。
戦争というものは、大規模に行われるだけに、また、戦争の最前線では、自国の軍隊や相手国の軍隊が孤立し、隊列の分断が頻繁に起こるだけに、極限状態のもとで様々な事態が発生する。

沖縄における日本軍による自決の強要、集団自決などもそれらの事例の一つだった。ここには、日本軍による沖縄県民に対する差別、侵略の軍隊であった日本軍の非人間的な本質が現れている。
アメリカが行った戦闘行為が、正しい目的を持ったから、基本的に正しかったのかといえば、そうとはいえない。木造家屋が多いところに着眼して、焼夷爆弾を開発して日本に投下し、大火災を引き起こした行為は、極めて非人間的な行為だった。空襲にしても、原爆投下にしても、それらはすべて、非戦闘員に対して行われたものだった。中国の反撃、残留した日本人に対する態度のすべてが正しかったともいえない。戦争は、おびただしい非人間的な事態を双方に引き起こす。ここに戦争の一つの本質がある。戦争状態における殺人は、平時であれば、犯罪なのに、そのような扱いは受けない。ここには超法規的な状態が存在する。

日本国民は、被害と加害という両方の体験をした。この両面から生まれた「戦争を繰り返してはならない」という思いは、憲法第9条を生み出した。第9条には、反戦と非戦の願いが込められているとともに、侵略戦争への深い贖罪が込められている。
政府による戦争の否定、戦争一般の否定は、戦争の犯罪性を告発するものになっている。
この考え方に到達した第9条の価値は大きい。

橋下徹氏の従軍慰安婦に対する発言には、戦争を肯定する考え方がある。この戦争肯定論は、日本国憲法と相入れない。
アメリカもヨーロッパも、日本の侵略戦争を許さない、歴史を修正することは許さないという視点から発言を問題にしている。この視点は、元慰安婦の人権を守る視点とともに極めて重要なものだと思う。しかし、日本は、これに加えて、戦争一般を肯定する党首の発言は許せないという観点から橋下発言を批判する必要がある。
日本国憲法は、大義名分がある戦争は、行ってもいいという立場には立っていない。イラク戦争の時に、アメリカとイギリスは、イラクに大量破壊兵器があると言って自分たちの侵略戦争を正当化した。この理由はウソだったが、日本は、どんなに戦争に正当性があっても、戦争はしないことを決めた国である。ここがアメリカやイギリスとは違っている。戦後、日本は、戦争をしない国として、他の国とは違った歴史を作ってきた。この歴史的経験は重い。

戦争そのものの否定を誓った国は、日本以外にない。ここに日本国民の誇りがある。


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Posted by 東芝 弘明