戦争そのものの否定を

雑感

昨日の憲法第9条は、戦争一般を否定していると書いたときに、念頭には手塚治虫さんの作品のことがあった。手塚さんは、早い時期から戦争の愚かさを具体的に描き、勧善懲悪ではない姿を描いてきた作家だった。そのことを通じて、戦争そのものの愚かさを描いてきたといってもいいだろう。

近年、アニメーションでは、戦争などを描くときに、勧善懲悪から離れて戦っている国や組織同士の内実が描かれ、一方的な悪が描かれるという傾向がなくなってきている。
先週の「宇宙戦艦ヤマト」では、ガミラスとの戦争の際、戦端を開いたのは、地球防衛軍だったことが明らかにされた。ガミラスが侵略をして、地球が反撃したということではなく、相手の意志が全く確認できない段階で、地球防衛軍が攻撃したことが描かれていた。また、ガミラス星人が、皮膚の色だけが違う地球人と全く同じ生物であることも明らかにされ、高い文明と誇りを持った人間であることが描かれていた。こういう描き方は、戦争という現実を踏まえたものになっているということだろう。

実際に行われたアジア・太平洋戦争は、アニメーションの世界よりもはるかに複雑だ。
日本は、アジアや太平洋の諸国に対して、侵略戦争を展開したけれど、戦場にかり出された人々が、すべて侵略戦争の権化のような人々であった訳ではない。家族があり、妻があり、恋人があり、子どもや母、父がいる普通の人々が、戦場にかり出され、戦争に巻き込まれていったということであって、殺人をものすごく嫌がっていた人もいたし、あの当時の戦争に正義がないことを知っていた人もいただろう。

当時の日本青年の中には、侵略戦争を正義の戦いだと信じ込まされ、特攻に赴く際も、純粋に日本を愛し、愛した祖国を守りたいという心情を切々と綴ったような遺書がたくさん存在する。しかし、どんなに純粋な青年の意志があったとはいえ、あの戦争は、侵略を計画した国家の思惑に基づいて行われたものであり、アジア諸国民の命を2000万人以上奪った戦争だった。侵略戦争の本質を明らかにせず、若者を軍国主義教育に染め上げ、アジア解放の戦争だと偽って、戦争に国民を駆り立てた当時の戦争遂行勢力は、徹底的に批判されなければならない。現代に生きる私たちは、侵略戦争を引き起こしたことに対し、教訓を導き出して、同じ過ちを繰り返さないという責任がある。この責任は、歴史に対する私たちの使命だと思われる。

戦争の非人間性を告発していた手塚さんという作家は、戦争が終わったとき17歳だった。10代の戦争体験を経て、戦争の愚かさを告発するようになったこの作家は、日本国憲法第9条の深い意味を体現し、この考え方を作品の中に実に豊かに反映させていた。

ぼくの好きだった作品に「火の鳥」がある。壮大な叙事詩的な作品だ。この作品では、主人公たちが死にゆく人間として描かれており、「火の鳥」という生命を超越した存在によって、主人公の死後も歴史が続いていくことを描いている。作品の中で描かれるさまざまな戦争は、人間の愚かさを時代の中で描くものになっているが、そこに深く流れているのは、憲法第9条の「戦争の否定」だったのだと思う。

この作品は、かつらぎ町の図書館にある。従軍慰安婦の関係資料をコピーしてもらっている間、ぼくは久しぶりに「火の鳥」を眺めてみた。10代の終わりにむさぼるように読んでいたときの記憶が次第によみがえってきた。

戦争には、徹底的な正義のたたかいなどはない。戦争という人間どおしが殺し合う極限状態下では、極めて非人間的な行為が双方に繰り返される。こういうことを止めさせるためには、戦争そのものをなくす必要がある。これが、手塚さんの到達した観点だったように感じる。
侵略を仕掛けてくる国に対して、反撃せざるを得ない戦争というものはあるだろう。しかし、それでもなお、一刻も早く戦争状態を終わりにして、平和をとりもどすことが何よりも大事だろう。戦場に行かされるのは、圧倒的多数が庶民と呼ばれる国民である。正義の側に立っている軍隊も、侵略の側に立っている軍隊も、衝突すれば双方に犠牲が出る。この犠牲によって、複雑な形で悲劇が再生産される。
正義のために闘った側には、誇りが残るかも知れないけれど、階級と階級に分裂した社会で、戦争の犠牲になった人々の側には、貧困やさまざまな困難が再生産されていく。
国民にとって、戦争というものは、数多くの犠牲と悲惨さを伴う憎むべきものであることは間違いない。
戦争は政治の延長であり、政治は、富めるものによって動かされる。戦争で戦場にたち、武器を持つものはどうしても貧しい庶民ということになる。

戦争そのものの否定。ここに人類の理想がある。

雑感

Posted by 東芝 弘明