小さな「伊藤千代子」を胸に

雑感

戦前、日本共産党員だった伊藤千代子の生涯を描いた映画、『わが青春つきるとも』が橋本市の産業文化会館で上映されたので見に行った。残念ながら最初の40分、家の用事があって見ることができなかった。

会場に到着すると受付には誰もいなかった。1階の入り口から入ると見ている人の妨げになるので、2階への階段を上って2階席の一番後ろから入ることにした。二重扉を開けて中に入ると映画の音が聞こえてきた。足下が暗くて見えない。恐る恐る前に進んで行っても階段に当たらない。どこまでもフラットな床が続くので不思議に思った。
次第に目がなれてくると、中央部分がフラットになっていて、サイドが階段状になっていた。真ん中の場所から左端に行き、階段を降りて前の方の席に移動した。
伊藤千代子が、日本共産党への入党を勧められ、二つ返事で入党を決意するシーンが描かれていた。

今回の映画は、戦前の若い女性党員たちが描かれていた。日本共産党の戦前のたたかいは、特高警察の弾圧を受けながらも、不屈にたたかい抜いた生き方が描かれている。政治による弾圧を描いた作品は、人間としてどう生きるべきなのかという根源的な問いを含まざるを得ない。それは、アメリカの黒人奴隷からの解放を描いた作品やヒットラー政権に対する抵抗を描いた作品などとも共通する。南アフリカのアパルトヘイトを描いた『遠い夜明け』のことも思い出される。

弾圧を受けても節を曲げずに生き抜いた人々の話は、どうしても自分の生き方に対する問いを含む。映画からは太い矢印ベクトルが自分にめがけて差し込まれる。しかも、それが実話にもとづく作品ということになれば、見るものにとって重いテーマを投げかける。

戦後の日本社会には、伊藤千代子のように節を曲げずにたたかった数多くの伊藤千代子がいる。それは男女の違いなく存在する。日本共産党員だけとは限らない。me too運動にもそれはあるし、伊藤詩織さんによる性暴力被害を訴えた、たたかいもその一つだろう。労働運動の中で迫害を受けた人を描いた『沈まぬ太陽』(山崎豊子著)は、現実の日本共産党員がモデルだった。電電公社の不当解雇を描いた『母さんの樹』という作品にもこの精神は強く流れている。

日本共産党の議員として活動をしていると、小さな伊藤千代子がぼくの中にもいて、揺るがないで険しい道を選択するよう求めることがある。いつのときも不屈であり続けることは難しいとは思う。伊藤千代子が映画の中で、夫の裏切りに直面して精神的に不安定になるようなことは、現実の中で当然のこととして起こる。それでも人は、胸の中に小さな伊藤千代子を抱いて、節を曲げずに貫く生き方を選ぶ。もちろん力関係の中で選べない人もいる。

あのような激しい弾圧の中で、自分の信じた道を貫けた人は少ない。多くの共産党員が、自分の信じた道を自分で裏切り、しかもその後自分の変節を合理化して、日本共産党と敵対した人や権力側に利用される生き方を選択した人も多い。

脳は、自分の選択した態度を合理化しようとする。これが脳の働きなのだという。無意識のうちに記憶が書き換えられる。自分の行為を合理化するよう脳が動く。脳科学者によれば、これは全ての人間に備わっている一般的傾向なのだという。
不屈に信念を貫いた人でも、他の部分では自らの誤りを認めなかったり、自分の取った態度に固執した人もたくさんいる。徳田球一のように獄中で不屈にたたかった人であっても、戦後、家父長的なものの見方考え方で党を指導し、決定的な誤りを犯した人もいる。

人生は選択の連続。自分が物事を選択しようとするとき、「今が正念場だよね」、ということを自覚して、確信を持って進むべき道を選びたいと思う。
伊藤千代子の映画を見ていると宮本百合子の『自信のあるなし』という短いエッセイを思い出した。短いエッセイなので、青空文庫から全文、引用してみよう。

 私たちのまわりでは、よく、自信があるとか、自信がないとかいう表現がされる。そして、この頃の少しものを考える若い女のひとは、何となしこの自信の無さに自分としても苦しんでいることが多いように思えるのはどういうわけだろうか。
 一つには、女の与えられる教育というものが、あらゆる意味で不徹底だという理由がある。なまじい専門程度の学校を出ているということで、現実にはかえってその女のひとの心がちぢかまるということは、深刻に日本の女性の文化のありようを省みさせることなのである。
 けれども、自信というものに即してみれば、そもそも自信というものは私たちの生活の実際に、どういう関係を持っているのだろう。でも自信がなくて、といわれる時、それはいつもある一つのことをやって必ずそれが成就すると自分に向っていいきれない場合である。成就するといいきれないから、踏み出せない。そういうときの表現である。けれども、一体自信というものは、そのように好結果の見とおしに対してだけいわれる筈のものだろうか。成功し得る自信というしか、人間の自信ははたしてあり得ないものだろうか。


 私はむしろ、行為の動機に対してこそ自信のある、なしとはいえるのだと思う。あることに動こうとする自分の本心が、人間としてやむにやまれない力におされてのことだという自信があってこそ、結果の成功、不成功にかかわりなく、精一杯のところでやって見る勇気を持ち得るのだと思う。その上で成功すれば成功への過程への自信を、失敗すれば再び失敗はしないという自信を身につけつつ、人間としての豊かさを増してゆけるのだと思う。行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置くのでなくて、どうして人生の日々に新しい一歩を踏んでゆかなければならない青春に自信というものがあり得よう。

「行為の動機に対する確信」のことを自信の根底に据えている宮本百合子という作家は、戦争の時代も含めて「一点恥じることのない生き方を」貫いた1人の女性だった。伊藤千代子は宮本百合子の中にもいた。
行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置く」ことを貫いた伊藤千代子。それが伊藤千代子を支えていたのだと思う。

日本共産党員も、さまざまな弱点をもった人間の集まりなので、頑固に自分の意見に固執したり、優柔不断だったり、自分の誤りを認めずに卑怯だったりもする。もちろん、さまざまな弱点は、過酷な弾圧には耐えられないかも知れない。断固原則を貫く人であっても、拷問にはからっきしですぐに屈服する人もいるのではないかと思われる。
今の時代は、伊藤千代子たちのように徹底した不屈さが求められはしないと思う。自由と民主主義が長い時間をかけて拡大してきたので、さまざまな弱さをもっていても、共産党員として生きることのできる時代を、ぼくたちは生きている。
そういう時代であっても、多くの人々は、伊藤千代子のような選択に向き合うことがある。それは、人間として生きる上では避けられない。まして、議員は職業柄、そういう選択肢を自らに課している位置で生きている。
ぼくは、そういう中にいて、小さな「伊藤千代子」を胸に抱いて生きていきたい。一人議員になったので選択肢は孤独であったりするだろう。一人、議場で孤立することを恐れることはない。貫けるかどうかは、「行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置く」ことにによって試される。

利害関係まみれの政治の世界で生きていくためには、哲学が必要だと思っている。47都道府県の知事の中で、長野、静岡、宮崎、沖縄の4知事が国葬に参列しないという結果となった。国葬問題を日本の民主主義にとって、極めて重要な問題だと認識しているかどうかが問われている。この問題を重要問題として捉えないと「参列しない」という選択肢は出てこない。
ぼくは、この問題を小さなこととは考えない。国民の権利は不断の努力なしには保障されない。権力者が真正面から法的に根拠のないことを平気で実行するとき、すでに日本社会の自由の破壊は深く進行している。この問題を浅く考え、付き合いの範囲だというような捉え方では、国民の権利は守れない。

問われているのは、自分の行為に対する深い確信。
伊藤千代子の生き方は、厳しい時代の想像もつかないような世界のことではない。小さな伊藤千代子を胸に、ぼくは、ぼくの生きている場所で、「行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置く」生き方を貫きたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明