『風立ちぬ』談義

出来事

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飲み会で宮崎駿さんの『風立ちぬ』の話になった。
「もう終わっていると思った」
という意見が出た後、
「私は深まってると思ったけれど」
という意見も出た。

宮崎さんのファンであるぼくは、少し説明した。
「『千と千尋の神隠し』以降、宮崎さんはシナリオを書かなくなった。絵コンテを書きながら話を考えていくという方法を取っている」
「だからもう創作力が枯渇しているんじゃない?」
「崖の上のポニョなんか、何が言いたいのかよく分からないもん」
「あれは、死後の世界を描いているように思うよ。水の中でおじいちゃんやおばあちゃんが平気で生きて話をしていたし」
「あんな話、子どもには分からないし、大人にも分からないし」
「そうかも知れないね」
「最近はね、話がすとんと終わっちゃうんよ。『借りぐらし』も『コクリコ坂』もね。盛り上がりに欠ける。なんだか盛り上がりに欠けて、すっと終わっちゃう。『風立ちぬ』でね、創作できるのは10年ぐらいというようなシーンがあってね、それは宮崎さん、自分の事をいっているように思ったのよ」

このまとまった意見に、男子の意見が入ってきた。
「『サマーウォーズ』なんかでは、葉っぱまで動いていたし。ジブリは背景が動かない。もうジブリを超えてるで」
結局、見ていない人間は、「観た」という人の意見に引きずられて、話を聞くような感じになった。
「日本のアニメはね。敵も味方もどちらも描いて、完全な悪はないという描き方をしているで。これは外国アニメにはない描き方や。戦争っていうのは、アメリカ人にもいい人がいるし、日本にもいい人がいる。そういうことなんや」
「それはそうやね。最近の『宇宙戦艦ヤマト』では、ガミラスに戦争を仕掛けたのは地球防衛軍だったということになってるし」
「『宇宙戦艦ヤマト』、時々観てるけど、森雪って、前は絶対的存在だったんや。それが、今度は、女の子が色々出てきて。それがタイプが違うんよなあ」
森雪が好きだったという話で爆笑になった。

勧善懲悪を描かない傾向は、ガンダムの頃からあったかも知れない。ジブリでいえば、「もののけ姫」が、勧善懲悪でない描き方をした。『ハウルの動く城』もそうだったように思う。この傾向は、最近は非常に多くなっている。少し前の仮面ライダーの作品を観ていると、5人ぐらいの仮面ライダーが出てきて、ライダー同士が闘ったり、仮面ライダー自身が昔風に言えば怪人でもあったという設定だったりした。
『宇宙戦艦ヤマト』もガミラス側をていねいに描き、独裁国家における反逆や苦悩が描かれている。ドメル将軍などは非常に魅力的に描かれている。ヤマトの中で起こったクーデター、ガミラス内でのクーデターも描かれている。
『風立ちぬ』を観たいと思っている。ぼくは、評価の分かれている宮崎さんのこの作品をどう受けとめるのか、考えるとワクワクしてくる。観ないまま一言書くと、宮崎さんは、あの時代を神の視点で描かなかったということではないか、と思っている。あの時代の空気、あの時代に生きていた人々。それを観たいという気持ちになっている。『コクリコ坂』では、時代の空気がよく描かれていた。あの時代の空気を同じように描いていたのは、山田洋次さんの『ダウンタウンヒーローズ』だろう。ぼくは、アニメを観ながらこの映画を思い出していた。

宮崎さんが作る作品は、謎がたくさん折り込まれていて、解けないまま話が終わることが多い。ぼくはここにものすごく惹かれている。勝手な解釈をして勝手に楽しめるところがいい。『風立ちぬ』もそういう作品に仕上がっていれば、ぼくとしては大満足になるかも知れない。

50歳を回った世代のアニメ談義は、盛り上がりを見せながら、全く別の話に移っていった。だんだん酔っ払いの度合いが増してきたので、どこから次の話に転換していったのか、なかなか思い出せない。


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出来事

Posted by 東芝 弘明