8月15日と『播州平野』

出来事

8月15日になると、宮本百合子の『播州平野』のことが思い出される。この人は天皇の玉音放送を次のように表現した。ひろ子は、小説の主人公。

 

「御飯、どうなさる? 放送をきいてからにしましょうか」
 きょう、正午に重大放送があるから必ず聴くように、と予告されていたのであった。
「それでいいだろう、けさおそかったから。――姉さん、平気かい?」
「わたしは大丈夫だわ」
 伸一が、柱時計を見てラジオのスイッチ係りになった。やがて録音された天皇の声が伝えられて来た。電圧が下っていて、気力に乏しい、文句の難かしいその音声は、いかにも聴きとりにくかった。伸一は、天皇というものの声が珍しくて、よく聴こうとしきりに調節した。一番調子のいいところで、やっと文句がわかる程度である。健吉も、小枝の膝に腰かけておとなしく瞬(まばたき)している。段々進んで「ポツダム宣言を受諾せざるを得ず」という意味の文句がかすかに聞えた。ひろ子は思わず、縁側よりに居た場所から、ラジオのそばまで、にじりよって行った。耳を圧しつけるようにして聴いた。まわりくどい、すぐに分らないような形式を選んで表現されているが、これは無条件降伏の宣言である。天皇の声が絶えるとすぐ、ひろ子は、
「わかった?」と、弟夫婦を顧みた。
「無条件降伏よ」
 続けて、内閣告諭というのが放送された。そして、それも終った。一人としてものを云うものがない。ややあって一言、行雄があきれはてたように呻いた。
「――おそれいったもんだ」
 そのときになってひろ子は、周囲の寂寞(せきばく)におどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。寂(せき)として声なし。全身に、ひろ子はそれを感じた。八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。東北の小さい田舎町までも、暑さとともに凝固させた深い沈黙は、これ迄ひろ子個人の生活にも苦しかったひどい歴史の悶絶の瞬間でなくて、何であったろう。ひろ子は、身内が顫(ふる)えるようになって来るのを制しかねた。

 

この文章の中にある「歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。」という前後の文章を好きな人は多い。宮本百合子は、こういう姿勢で玉音放送を聞いた稀有の存在だった。あの瞬間を、歴史の進歩、発展としてとらえた目はしなやかで、かつダイナミックだった。
こういう風にあの瞬間を書いた作家はいない。

戦争は、国内にいた人々を痛めつけ、身内の戦死等々に苦しめられた。戦争のあとは、ひどい食糧難や住宅難に苦しめられた。朝鮮、中国、東南アジア、シベリア抑留、広島、長崎への原爆投下、各都市への空襲。一人一人に戦争があった。国民の無数の体験は、やがて、憲法第9条を生み出した。
宮本百合子が書いたように、天皇の玉音放送から始まった戦後は、女性に参政権を生み出し、国民主権を実現し、国民に基本的人権を保障し、結社の自由を実現した。

音なくめくられた歴史の頁を、屈辱だと感じる勢力が、国家の権力を握り、国民主権さえをも否定するかのごとく、憲法を変えようとしている。立憲主義を否定するのですかと問われた自民党幹部は、国は国民を守るが、国は一体誰が守るのかと言った。
戦争をしかけながら、仕掛けた戦争から国を守れというのは、国のために死んで欲しいというに等しい。

8月15日、橋本の駅前で戦争に反対した人々の名誉回復と国家賠償を求めて署名に立った。若者の一人は真剣に話を聞いてくれ、幾つかの質問のあと、ペンを握ってくれた。
その時も日差しは強かった。胸の底には宮本百合子の『播州平野』があった。


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出来事

Posted by 東芝 弘明