宮崎駿さん、引退
宮崎駿さんの引退発表がジブリの星野康二社長によって行われた。いつか、近い将来、引退だろうと思っていたが、このタイミングだとは思わなかった。宮崎さんは、映画監督である前にアニメーターだった。絵が思うように描けなくなったら、引退してしまうという感じがあった。
「プロフェッショナル仕事の流儀」を見ていても、思ったように書けない、仕事量が落ちているということと、「めんどくさい」をしきりに連発していた。気持ちと筆の動きのズレが苛立ちとして現れているようだった。
「風立ちぬ」を最後にするというのには、いささか未練が残る。たえず自分に新しい挑戦を課して新しいことに取り組んできた人だっただけに、作品については、善し悪しが明確に現れた。今回の「風立ちぬ」は、作品だけで何かを受け取れというのには、いささか成功していない。この前も書いたが、宮崎駿論という作家論がなければ、今回の「風立ちぬ」から何かを受け取るのは、難しかった。
評価が大きく分かれるというのは、その現れだったと思う。
個人的に「風立ちぬ」は、かなり楽しむことのできた作品だった。宮崎さんの問題提起はいつも奥が深い。今回の「風立ちぬ」にも誰かと語り合いたいような思いがつのってくる。基本的な素養に欠けるので、映画の中に折り込まれたさまざまなメッセージの多くは見落としたものが多いだろう。宮崎さんは、職人なのでアニメとしての技術論的な挑戦も多い。それらは見ていてもなかなか気がつかないのだけれど、その分野だけでも論じるべき内容がたくさんあるようだ。
文化的な面でも、使われていた曲とか、登場人物の名前とか、さまざまなことを知っている人は、映画の中に折り込まれている事柄の深さを感じ取れるので、うらやましいと思う。
宮崎さんの作品のことを考えていると山田洋次さんの作品のことが浮かんでくる。
山田洋次さんの作品は、映画を見終わった後、語るべきものがたくさん残るような映画がものすごく多い。寅さん論には実に楽しいものがたくさんあった。山田洋次さんの寅さんを映画館で見続けてきたのと同じように、ぼくは宮崎さんの作品を、映画館で見続けてきた。山田洋次さんのように見た者を虜にし、論じたくなるような謎がいっぱいあるのが、宮崎さんの作品だった。映画を作るたびに、さまざまな見方があふれ出て、百花繚乱のような様相を呈する、そこにこの人の面白さがあった。自分の作品作りを通じて、たくさんのことを考え発見する、それを映画の中に盛り込んでいく。そういう作品作りをしていると、見る人にはそれが伝わっていく。余韻豊かな作品という点で、山田洋次さんと宮崎駿さんはよく似ている。
ユーミンのベストが欲しくなったので買ったし、柳田邦男さんの「霊式戦闘機」も買った。これがぼくの「風立ちぬ」の余韻の一部の現れだった。
宮崎さん自身の言葉で引退の話を聞くことになる。それを待つことにしよう。
柳田邦男さんは、文章がうまく空想的見方をする作家ではありません。「零式戦闘機」は冷静に事実を分析したノンフィルション作品です。宮崎駿さんのようなアニメ家とは世界が違います。堀越二郎や当時の航空産業に対する冷静な記述があり、零式戦闘機とはなんだったのか?書かれているだけです。
まあ~飛行機好きの平和主義者で、いやいや戦闘機を作った。・・・・なんていうアニメ的な簡単な話ではありません。
そうだと思います。全くの別物として読んでみたくなりました。