実写とアニメの違い

未分類

今日から議会が始まった。
福田首相は、行き詰まって辞任したけれどかつらぎ町のような小さな自治体では、行き詰まったからといって政権を投げ出すことはできそうにないと思う。町長というのは、町民であり生活者でもあるから「辞任します」というのは、なにかとんでもない不祥事をしたときだけだろう。普通は、選挙で敗れるかもしくは引退するかだろう。
内閣総理大臣が、辞任できるのは国民から遠い存在だからだろう。「無責任」だと批判されても総理大臣なし肉には動いていく。それだけの体制が国家にはある。
市町村長は、大統領だから辞任の影響は大きい。まあ、辞任しても副町長が代理を務めれば、つなぎはできるし仕事は動いていく。自治体の首長は、内閣総理大臣のように、重い責任があるけれど辞めてもいいというような軽い位置にはない。住民に直結した責任は、ある意味で総理大臣よりも重い。
さて。閑話休題。
山田洋次さんは、寅さんを47作も作り、ワンパターンな話の中に新しい話をものすごくたくさん盛り込んで変化していった。しかし、宮崎駿さんは、一作ごとにまったく新しい表現方法に挑戦して、同じものを作ってこなかったし、劇場映画を描き始めてからは、続編の政策をかたくなに拒んできた。
この違いはどこから生まれるのだろうか。
それは、実写映画とアニメーションの違いからくるのではないだろうか。
アニメーションは、1秒間に30枚の絵を描く必要がある。まったく生命のない絵に命を吹き込むために、少しずつずらした絵を描く。そうしないと絵は動かない。1人のアニメーターが1週間で描ける秒数は5秒だという。5秒で150枚。描いている人にとれば、動きのあまりないシーンになるとほとんど同じ絵を150枚も描くということになる。
「波の動きをアニメーションで描きたい」(「魔女の宅急便」はこれが1つのテーマだった)──たとえばこういうテーマを設定して、波のシーンを描くとすると、2時間の映画の中で、膨大な波の動きを手で描くことになる。
2時間ものの映画を作ると、描きたかった絵、ものの動きは飽きるほど味わうことができる。同じような映画は二度と作らないというのは、こういう作業があって出てくるものではないだろうか。
この制作方法の違いが、寅さんの47作と宮崎駿さんの映画の作り方の違いに色濃く反映しているのではないだろうか。
このことに気がついたのは1つの発見だった。
あるときにふと浮かんだひらめき。しかし、この思いつきは魅力的な発見だった。
この発見は、かなり確かなことだと思っている。
できれば、そういうことなのか。
この考え方に間違いはないか。
本人たちに聞いてみたい。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

未分類

Posted by 東芝 弘明