人間の性格は変わるか?

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「三つ子の魂百まで」ということわざがあります。
意味は、「幼時の性格は、年をとっても変わらないということのたとえ」とある。いろいろな辞書にも同じことが書かれています。
このことわざは、学習のことをいっているのではないと思います。三つまでに真剣に幼児教育を行えば、賢い子どもに育つという意味は、このことわざにはふくまれていないというのがぼくの考えです。
ぼくの場合、学ぶ姿勢が確立したのは、18歳を過ぎてからでした。文章で自分の意を十分に伝えられるようになったのは、27歳の頃でした。
小さい頃は、努力することを知りませんでした。勉強は学校だけ、先生の授業を一生懸命聞くというのが自分の勉強方法のほとんどすべてでした。
小学校と中学校はそれで通用していました。しかし、高校生になると、学校の授業だけを熱心に聞くだけでは、成績を維持することはできませんでした。
ぼくは、経済学と哲学に出会ってからようやく学習をはじめました。それは大学に入ってからのことでした。
学んで真理をつかみとって、人生観や世界観が大きくかわるような体験は、3歳までには経験できません。学ぶという行為は、技術ではないと思います。3歳までに英才教育を行えば、その子が大人になってもよく学ぶ人間になるとは限らないのではないでしょうか。充実した幼児教育を受けた人が、どんどん成績を伸ばしていった例がどれだけあるでしょうか。
「三つ子の魂百まで」というのは、人間の性格のことをいっているのだと思います。
不思議なのは、子どもの性格が、生まれつきのように見えることです。同じ両親から生まれても、兄弟の性格は一人一人違います。性格の違いは、子どもに物心がつくまでに現れてくるように見えます。何が人間の性格を形づくっているのかは、まだまだ未解明なのではないでしょうか。
この三つ子の魂は、死ぬまで変わらないのでしょうか。人間は、自分の力で性格を変えることができるでしょうか。
これが問いかけたいぼくの問題意識です。
ぼくは、なかなか変わりにくい性格も、時間の流れのなかで変わりうると考えています。
人間の感情や意識は、外界との関係を主体的、能動的に反映することによって形づくられます。人生のスタート時の幼児期は、性格もまだ十分出来上がっていないので、親がどう子どもに関わっていくのかが非常に大切だと思います。一番大事なのは、小さいときに愛情たっぷりに、十二分に甘やかされて育つことではないでしょうか。
こどもは、無意識にたえず親を求めています。自分が泣いたり笑ったりたときに、親がどう反応するかによって、子どもは愛情を感じるのではないでしょうか。純粋無垢な幼児期に無条件の暖かな愛情を感じながら育つことが何よりも大切です。
躾は、たっぷりの愛情の中で、時間をかけて伝えていけばいいと思っています。
小さいときに甘やかせて育てることは、全く間違いではないでしょう。むしろ、それは必要なことだと思います。
3歳を超えると人間は、次第に外界の世界との関係で自分自身を見るようになってきます。最初、親以外で子どもの視野に入ってくるのは、友だちではないでしょうか。友だち関係を結ぶのは、社会性を学ぶことに他なりません。躾はその時分から時間をかけて学べばいいのではないでしょうか。
形から入るのが躾です。しかし、躾の意味(内容)を理解しながら育っていけば、その躾は、子どもの生きる力になるのではないでしょうか。躾には、他人を大事にする美しい思いが込められています。作法と精神を学ぶことが、姿と心を育てるのではないでしょうか。
人間の性格を変えるのは、可能だと書きました。子どもの時代は、周りの人間の働きかけによって性格は形成されます。3歳頃までに性格の基本は確立するのだと思いますが、それ以降も変化の流れのなかにあると思います。外界への反応の仕方が、次第に確立していくとどのような事件が発生しても、形成された性格によって、反応の仕方に一定のパターンが生まれます。そうなってくるとなかなか性格は変わらないのではないでしょうか。
子どもの時代は、まだまだ柔軟なので、愛情の欠乏などによって強烈な反応を示すような子どもであっても、何かのきっかけがあれば子どもは大きく変わるのだと思います。
小学校時代は、子どもの性格は、大きく変わりうるだけの可塑性を豊かにもっているのではないでしょうか。
大人はどうでしょう。
大人になると多くの人は精神的には安定します。子どもの時代のようにすぐ起こったり、すねたり、泣いたり笑ったりという激しい変化の中にあるわけではありません。子どもが、激しく感情を変化させるのは、性格の可塑性が大きいことの現れだと思います。
大人になったら、時間をかけて自分の力で、時分の性格を変えていく努力が必要です。それは、ものの見方考え方を培う中で、変えることができるように思っています。
やっかいなのは、感情です。感情は、無意識のうちに外界から反応を受けて現れてくるもので、たえず人間の行動と直結したものです。感情は、頭の中の意識というよりも、もっと肉体と直結したもので、行動の伴うものです。直接心と体に反応するのが感情ですから、考える前にすでに体やこことが動いています。この感情と性格は深く結びついています。
感情をコントロールするのは非常に難しいものです。性格を変えるという場合、感情問題を抜きに論じることはできません。感情をコントロールするためには、普段からものの見方、考え方を鍛えることが大切なのではないでしょうか。穏やかなときに冷静に豊かにものを見る力が培っていけば、感情が表に出てきたときも、日頃の鍛錬が力を発揮して、うまくいく場合が出てくるのではないでしょうか。
大人は、かなり牢固な性格をもっています。牢固に確立した性格を変えるためには、長い鍛錬が必要になるということです。それは、欠点の克服ではないと思います。時分の気に入らない性格を直そうと思っても、そのようなコントロールは難しいと思われます。性格を変える力は、自己肯定感だと思います。自分が充実した人生を送り、より良いものをめざすなかでこそ、性格を変えることができるのではないでしょうか。
欠点だと思われる性格は、感情と深く結びついた場合が多いのではないでしょうか。そういうものは、なかなか自分でコントロールできません。そういう感情が生まれることを変えるためには、物事のものの見方考え方を変える中で、徐々にしか変化しないと思われます。
性格も感情も心の現象形態です。そういう現象がなぜ起こるのでしょうか。
現象を突き止めるためには、その現象の本質をつかむ必要があります。
ものの見方考え方が、現象の本質に横たわっていると思います。
思いつくままに書いてしまいました。今日書いたことは、確証のない試論のようなものです。試論までいかない私見のたぐいなのかも知れません。心理学についての本も読んでみたくなりました。今日書いたことが、本を読む中で変化していくと思われます。その変化が、学習そのものです。自分の問題意識が、新しい知見に出会って変化していくことが、自分の視野を広げます。そこに面白さがあると思っています。
さて、ぐちゃぐちゃ書いてみて整理ができてきました。
上記のように書いたことによって、次のような論が出来上がりました。
ご覧ください。

感情とは何か。感情は人間の五感に直結し、人間を直接動かす力をもったもの。感情に逆らって行動していると、心と体のバランスが崩れてくる。病気になる。それほど感情というものは、人間にとって大事なもの。ぼくはそう考えています。感情と性格は密接に絡まり合っています。だからこそ、なかなか、自分の力で変えることができないのです。
性格と感情は、物事に対する人間としての反応の仕方であり、それは現象形態です。このような性格を変えるためには、日常的にものの見方考え方をきたえる必要があります。ものの見方考え方は、人間の認識に関わるものです。人間は、まず直感的に物事を見ます。生き生きした直感から始まって、次第に物事を全体的にとらえていきます。生き生きした直感から全体的な認識へ。これがものの見方考え方を培っていくプロセスです。この分野で努力をすることによって、最初の直感も次第に豊かに鍛えられます。弁護士が、人の話を聞いて、対応する法律がすぐに頭に浮かんできたり、野球選手が瞬時にボールの変化を捉えて、それに体が反応するように、訓練によってものの見方考え方も鍛えることができます。
認識の分野に属するものの見方考え方を鍛えることによって、直感を豊かにすることができる。直感を豊かにすることによって、直感と同じ感情や性格にも影響を与えることができる。
こういうことではないでしょうか。
最初に書いたものよりも少し整理された感じになりました。


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Posted by 東芝 弘明