もう一度、活用力について

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批判的思考力という話をすると、「発達段階に応じてすべきでは?。小学生は基礎ができていないので、どうなんでしょうか?」という言葉が返ってきた。
この話は、基礎基本の学習をしっかりしてこそ応用力が生まれてくるという話につながるものだと思った。
アメリカでは、小学校の教室に新聞がおかれていて、先生はどんどん読みなさいという。小学生の段階で、新聞記事を読んで討論がおこなわれる。イラク戦争について子ども達で議論が交わされ、その結論として「ブッシュが悪い」という答えが出たりする。
日本の教室で果たしてこのようなことがおこなえるだろうか。
小さい子どもたちは、身の回りのことに対して何にでも興味と関心をもっているので、親やまわりの人に「どうして?」とくり返したずねてくる。
ぼくは、小さい時期のこどもたちのこのような疑問には、真剣に向きあって答えてあげるべきだと思っている。「どうして?」という問を発したときこそ、子どもが、自分の手で自分の認識を深める絶好のチャンスなのだ。まわりの大人はこの問いを見逃してはならない。
このような問いかけに対し、「そんなことは大人になったら分かる」などと、はぐらかして言ったりすると、あなたの発言でノーベル賞受賞者を1人殺すことにさえなりかねないのだ。
自分の前に問題を立て、その問いを熱心に解く努力をする。こういう努力が科学と学問を発展させてきた。基礎基本の学習の先に応用力があるという考え方は、スポーツの鍛錬に似ている。と言えないだろうか。
日本のスポーツは、基礎基本の先に応用があるというがごとく選手を育ててきた。基礎基本の習得時期は、反復練習による覚え込みが最も大切。こういう見方は根強くあった。
しかし、このような方法は、選手の個性を殺してしまう指導方法ではなかろうか。このような指導方法は、最近あらためられつつあるのではないだろうか。
基礎基本は大事だが、基礎基本の習得も、なぜ?、どうして?という問をたて、それを解くなかでこそ習得されるのではないだろうか。
子ども達の内面からわき起こってくるさまざまな「問い」に答えることによって、主体的に学ぶ姿勢や意欲は確立する。僕はそう思う。小さいときから批判的な思考力を培う努力をおこなうべきなのだ。
小さな子どもは、本来批判的思考力のかたまりだといっていい。
授業を受けても質問が出てこないような高校生がいたとしよう。
このような高校生は、小さい頃から「なぜ?」と問う気持ちをどんどんしぼませてきた結果(このような気持ちを摘みとってきたのはまわりの大人ではないか)ではないだろうか。
活用力というのは、人間の社会的生活の中で学んだことを生かすということだろう。小学生が戦争について学び、イラク戦争の学習、討論をおこない、自主的な判断をもつことは、大事ではないだろうか。そういう学習をおこなうことが、国際的な人間を育てるのではないだろうか。
日本の教育は、何だか社会の出来事と一線を画している。農家のことを学べば、日本の現在の農業はどうなっているのか、という問いが立てられる。子ども達は、その問いを深める中で農業問題をリアルに把握していく。活用力というものは、こういうことを学ぶ中で身につく。小さいときからの積み重ねが大切だと言うことだ。
「まずは基礎基本の徹底を」
このような認識は、奥深いところから否定されなければならない。
眠たいので思考が働かない。


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Posted by 東芝 弘明