インプットとアウトプット
「問題解決の力=これも重要な学力の一つ」という記事に対して電話があり、トリノさんからのコメントもあった。
学力という言葉で、ぼくの言いたいことをくくって、説明したので伝わりきらない問題が発生したようだ。
本論に入る前に、書いておきたいことがある。
学力とは何かという問題は、きちんとした定義から始める必要がある。ぼくの先の記事は、定義からはじめていないので、学力とは何かに答えるものにはなっていない。難しいのは、学力という言葉が、広く一般的に使われているところにある。普段学力という言葉は、あたかも自明のことのように語られることが多い。しかし、何を持って学力だというのかは、実は極めてあいまいだと思われる。学力という言葉の概念については、専門家を含めた人々と国民との間で、議論して確定すべき事柄だと思われる。
「算数ができいない大学生」や「分数ができない大学生」という本が出版されて、学力論争が起こったときにも、学力とは何か、という根本問題が深めきれなかった結果、議論が深くかみ合わなかったという傾向があったと指摘されている。
こういう問題があるので、今日は、角度を変えて書いておきたい。
やっと書きたいことにたどり着いた。
ぼくが、言いたかったことの一つは、小さい頃から物事の連関と連鎖を重視し、知識の獲得だけではなくて、知識の活用についても深く教えるべきだということだ。ただしこの問題は、「問題解決の力=これも重要な学力の一つ」では、何一つ展開されてはいない。
ぼくは、知識を学ぶことを否定しない。ペーパーテストを徹底的に否定するものでもない。なのに、論じ方が、テストによる見える学力と見えない学力を対比したので、あたかも知識を学ぶことを軽視しているかのようなニュアンスをかもし出してしまった。それが、トリノさんの指摘に繋がったように感じる。
日本の教育の伝統的な考え方には、基礎基本を徹底してはじめて、応用できるようになるという考え方がある。読み、書き、そろばん、基礎基本の徹底こそ学力を伸ばすというような傾向がある。このようなものの見方考え方は、スポーツ界にも根強く存在している。
基礎基本の徹底の先に応用があるというものの見方考え方は、伝統芸能にも根深い。職人の世界にも広く存在している。
ぼくは、こういう傾向が教育界にもかなり広く存在していると感じている。
基礎基本を身につけるためには、たたき込むのがいいという考え方も根強い。
しかし、このような傾向は、果たして十分な教育的効果を生み出すのだろうか。
全ての物事は、連関と連鎖の中にある。物事を見極めるためには、この連関と連鎖を見つめないとうまく行かない。物事を連関と連鎖の中で捉える努力は、小さい頃からくり返し、物事をとらえ直す中で身につくのではないかと思っている。物事を生成と発展、消滅の過程の中でとらえるというものの見方も、小さい頃からくり返し把握させる努力の中で培われていくと思っている。
全てのものを連関と連鎖の中で捉えるためには、まず、物事を静止させて、変化しないものとして把握し、分類し、分析し、要素を調べ差異と類似とを確認する必要がある。しかし、この静止させた物事を次の段階では、他の物事との関連の中でとらえ直させることが非常に大事になる。これは、学んだことを生きた現実の中に置き直すことと繋がっている。国語、数学、理科、社会で学んだことは、たえず現実の中に置き直して、確かめていくことが、連関と連鎖の中でとらえ直すことに深くつながっている。
このような学習方法は、学んだことを生かすということに重なっていく。
文部科学省は、高校の段階になってはじめて、批判的な思考の育成という考え方を重視する。小中学校の段階には、批判的思考の育成というテーマはない。基礎基本を徹底してはじめて、批判的思考の育成ができるという考え方が、高校生段階での批判的思考の育成という考え方に反映している。
しかし、より豊かな人間を育成するためには、幼児の段階から批判的思考の育成を重視する必要があると考える。
小さな子ども達は、なぜと問う点では、天才的な力を発揮する。生まれてまず生じてくる意識は、好奇心だろう。この好奇心は、なぜ、どうしてという気持ちに支えられている。この小さい子どもの興味や関心をまっすぐに伸ばすことが、その後の子どもの成長に極めて重要な役割を果たす。子どもの好奇心を摘みとってしまうような関わり方や教育は、成長にとっては大きな障害になる。
小さい子どもが抱えている、なぜと問う気持ちは、批判的な思考力を育てる萌芽だと思っている。なぜを積みかさね、理解し納得しながら成長してきた子どもは、実に豊かな発想と想像力、さらに創造力さえも身につけて行くだろう。
小さい子ども達が、成長の過程の中で自然と見につける批判的な思考を育成すれば、自分の力で学ぶ姿勢も獲得していくだろうと思っている。
学習にとって、知識の習得は、きわめて大事な意味をもっている。確かな知識なしには、確かな思考も育まれない。学校で学ぶことが、社会との関係で十分に明らかにされない傾向は、学ぶ知識が、社会とかなり切り離されているところに問題がある。
電話をかけてきた友人は、ペーパーテストで試され、確認される学力は、いわば知識のインプットだと言った。ぼくの書いた見えない学力は、インプットされた知識を駆使して行われるアウトプットだと言い、インプットされた知識をテストで計ることはできるが、アウトプットはなかなか計れないと言った。
この分け方は面白いと感じた。
そのやり取りの中で、ぼくは、子どもの頃からインプットとアウトプットを結合させて教えるべきだと思っていると話した。
インプットとアウトプットの結合による教育は、学んだ知識を連関の中でとらえ直す、ということと極めて深く結びついている。たえず学んだことを実際に生かすという努力が小学校の頃から行われたら、生きることと学ぶこともしっかりと結びついたものになる。ぼくが言いたかったことは、ここにあるということだ。(少々眠たいので、思考に切れがない。あしからず。)
まさしく、その通りですね(*⌒▽⌒*)
批判的思考の育成を重視というのは、ちょっと違和感を感じる主張です。なにについて批判的なのか?その点を選択できないと結局、基礎学力の大きな低下につながると思います。単に批判すればいいというものではないと思います。また、子供の将来の職業についても、学力が必要度が大きく違う。たとえば医者になろうと思えば、相当なる基礎学力が必要だし、理科系の職業の場合 数学や理科の基礎知識は高校で勉強しなければいけない。また国際的な仕事に就くのなら語学力は必修となります。つまり将来の目指すものにより必要な学力が違うということです。
僕は、十分なインプットができない状態でアウトプットするのはよくないと思います。
物事を人間が認識する際、出発として大事な視点は、差異だと思います。物理学者の佐治晴夫さんは、透明なガラスが目の前にある場合、人間はガラスを認識できないが、例えば小さな赤い点がガラスに付着していれば、人間はガラスを認識できるというたとえ話をしたことがあります。
ガラスに付けられた赤い点が、差異だということです。
人間の認識の発展も学問の出発も、差異の発見から始まったということだと思います。分類学がまず形成されたのは、個別の物と物とを比較検討することによって、類似とともに差異を確認して、細分化していくことによって、人間の認識は深まっていきました。
ぼくは、物事への認識を深めるときに、まず差異を確認するところからはじめます。自治体の施策を見る場合も、他の自治体との比較検討によって、その自治体の特徴を把握するということもよくします。
物事を徹底的に比較検討することは、Aという物質をBやCやDやE……との間で違いとともに共通点を明らかにするということです。それは、視点を変えれば、Aに繋がっているBやCやDやE……との関係で連関を明らかにすることととも、繋がっています。しかし、差異を軸にした比較検討は、物質と物質との関係性の分析であるにもかかわらず、その物質の性質を独自に明らかにするという側面を持っているので、他の物質との関係を切り離して理解するという習慣を生み出しました。
ところで人間は、動いている物をなかなか認識できません。発達してきた差異を軸にした分析という方法は、その物質を他の物質との運動を切り離して見る見方を生み出しました。実験の条件をできるだけシンプルにして、運動を把握しようとするのは、よりシンプルな変化だけを見ることによって、運動法則を明らかにする努力だったと思います。
これらのことは、物質の性質を見極める場合でも、物質の運動を見極める場合でも分析的な方法が、極めて大事になるということを意味します。科学は、科の学なので、科=分類という意味をもっています。科学が発展していなかった時代には、全体的総合的な意味をもっていた学問は哲学でした。哲学は、学問を総合する学問だという意味をもっていたということです。
人間が物事を認識するためには、差異を軸にして分類し分析することが極めて重要になるのですが、そうやって明らかになってきた物質が、実際にどのような役割を果たしているのかを理解するためには、それらの物質を実際の連関の中に置いて理解することがどうしても必要になります。これは、徹底的な分析によって明らかにされた物質の性質を他の物質の性質と関係性の中で、どう運動しているのかを明らかにする努力だといえるでしょう。現在の自然科学の研究は、徹底的に要素に還元する努力を行いながら、今度は逆に階段を一歩一歩登るがごとく、他の物質との関係性の中でどう変化していくのかを捉えるところに存在しているように見えます。これは、物事を生成し、変化し、発展し、消滅する過程の中で捉える努力であり、分析と対峙すれば総合という努力だと思います。
学んだことをくり返し、現実のなかに生かすという努力は、分析と総合のくり返しだと思います。小さい頃から分析と総合をくり返し学ぶ中で、物事の分析の仕方と物事の総合の仕方、つまりそれは、物事を運動の中で捉える努力になると思います。現実の全ての事物は、複雑に絡み合って存在し、運動しています。運動のない物質はありません。小さい頃から、細分化していく知識を学びながら、それを現実の中に置き直して理解するというものの見方、考え方を培うことが、柔軟な思考を生み出すと思っているのです。
A=Bという関係は、AはCではないしD、Eではないということを含んでいます。規定性は否定性を内包しているということです。物事は、多面性をもっています。必然と偶然とは密接に絡み合っています。物質を離れた本質は存在せず、本質はたえず現象の中にあります。磁石のNとS、原子の陽子と電子、電気のプラスとマイナス、これらは、相反する2つの傾向が1つのものの中に同時に存在するというものであり、この相反する2つの傾向が同時に存在するという物質の基本的な成り立ちを具体的に理解することが、複雑な物事を複雑なまま捉える力になります。
差異と類似は、差異を理解することによって類似が一層鮮明になるということですよね。ここから出発し、徹底的な分析をしさらにこの分析を力に総合に向かう認識を培うためには、小さい頃から物事を批判的、多面的に捉える視点が極めて大事になります。差異を認識するということは、そこにすでに批判的な視点が含まれています。
学問の本来の姿を子どもに伝えるためには、子どもが認識できるように、上記に書いたような科学的なものの見方考え方を培う必要があると考えます。それは知識を徹底的に教え込んだ後に、基礎基本の徹底の先にあるのではなくて、物事を認識する最初の段階から培う努力が必要になるのではないか、ということです。ぼくの言いたいことが、この書き方で伝わったでしょうか。