24年間の歴史は次の未来をひらく力

雑感

高野龍神スカイライン紅葉、川

議員になって24年が経ちました。24年間、年に4回議会があり、そのたびに一般質問の機会がありました。この24年間、全ての議会で一般質問を行うことができたので、その回数は96回になりました。

一番心に残っている一般質問は、娘が誕生したときの一般質問です。夜中の2時前に近大病院から電話がありました。
「陣痛が始まりました。すぐ病院に来てください」
電話は助産師さんからでした。ぼくはその時、朝の9時から行われる一般質問の原稿を書いていました。
「すみません、実は、議員をしています。いま、朝行う質問の原稿を書いているところです。いま、陣痛が始まったんですよね。でも、すぐには生まれませんよね。もう一度、電話いただけますか。その電話を受けたらすぐ病院に行きますから」
そう言って、原稿を仕上げて仮眠したのは3時半頃だったと思います。
電話があったのは、7時前でした。
用意をして、病院に向かう途中で議会に電話を入れました。
「陣痛が始まったので、病院に向かっています。一般質問は、午後1番に回していただけないでしょうか」
朝一番に行う予定の一般質問を午後1時半に変更していただきました。

病院に着くと8時30分を回っていたと思います。立ち会いのもとで出産する予定だったので、分娩室に急ぎました。
妻はまさに神通の真っ最中でした。手を握っていると、頭が見え始めているのに押し出す力が弱ってきているということで、「旦那さんは部屋の外に出てください」と言われ、外に出なければなりませんでした。

娘が生まれたのは、10時過ぎでした。
「女の子ですよ」
助産師が娘を外に連れてきて、ぼくの目の前で娘をお湯で洗いました。
その時、娘は助産師が首にかけていた聴診器の管をつかみました。思ったよりも強い力で聴診器をつかんだのには驚きました。

ぼくは、病院を12時に出発し議会に向かいました。1時過ぎに役場の駐車場に着くと、駐車場がいっぱいだったので、職員駐車場の方に車を動かしました。車を停めるときに、まだ新しかった車をバックさせてフェンスのポールのナットにコツンと当ててしまいました。

1時半から一般質問が始まりました。
質問そのものは、あまり迫力のあるものにはなりませんでした。

50日と少し交通事故で入院したときも、議会の途中から出席して、一般質問を辛うじて行ったことがありました。どんな内容の一般質問だったのかは、あんまり記憶にありませんが、娘が生まれた時と事故の時は、一般質問ができるかどうか、きわどい事態だったと思います。

議会に出て、住民のみなさんの切実な要求を取りあげて実現を迫っていくということを繰り返してきました。その結果、多くのことが実現してきました。この24年間は、質問や質疑を積みかさねることによって、数多くの要求を実現してきた時間だったと思います。
かつらぎ町の学校給食には、長い長い物語があります。住民が学校給食を要求として取りあげてから47年が経っているという指摘があります。完全給食の実施を求めた請願が議会で採択されたのは1973年でした。それからでも41年が経過しています。ぼくが議員になってからでも24年が経っています。半世紀近くの運動があって実現した学校給食ですが、学校給食を実現するのに半世紀近くの時間が必要だったかつらぎ町というものは、考えてみる必要のある存在だとも思います。

1995年、南衞町長が学校給食実施を公約に掲げ、当選後、学校給食推進委員会が設置され検討が始まりました。しかし1996年7月、堺市で学校給食でO-157による食中毒が発生し、子どもが亡くなるという事件が発生しました。この事件によってかつらぎ町は、学校給食の検討を見合わせ、学校給食推進委員会は開店休業状態に陥りました。
ぼくの質問との関係で言えば、O-157の原因を取りあげ、O-157の教訓を明らかにして給食実施を迫った一般質問が、一つの転機になったと思っています。このときの質問では、文部省のO-157集団食中毒の最終報告書が力になりました。テレビやマスコミはほとんど報道しませんでしたが、国の公式文書には、O-157の原因食物は牛肉にあったと書いてありました。どの食物に原因があるのかを見極めることは、極めて重要なことでした。文部省は、当時、学校給食の衛生管理基準を徹底的に見直し、O-157による食中毒が二度と発生しない対策を講じました。ぼくは、質問で、教訓と対策を明らかにして、学校給食の実施の検討を再開するよう迫りました。

この質問と前後して、日本共産党町議団が「学校給食の早期実施を求める決議」を提出し、可決したことが大きな力になりました。それは2002年9月のことでした。1996年の中断から6年が経過していました。しかし、学校給食の検討が再開されるかどうかは、南町長の突然の引退表明、山本町政の誕生という変化の中で足踏みする状態になりました。そこに新たな変化が起こりました。それは小泉首相のもとで行われた三位一体の改革です。交付税が大幅に削減される動きの中で、2004年12月、設計予算を組んでいた渋田小学校の予算が全額削除されるという事態が起こり、町は急激に学校の統廃合へと舵を切っていきました。この舵の切り替えの最中に花園村との合併が行われました。
合併の翌年の2006年4月、教育委員会は、花園地域の梁瀬小学校を残すとともに、旧かつらぎ町の小学校については、10校を4校にする適正配置の方針を採択しました。教育委員会は、連続する校舎改築を優先し、学校給食の実施については、見送らざるをえないという態度を明らかにしました。この方針を採用する限り、学校給食は永遠に実現できないような事態になりました。
この状況のもとで、ぼくは、「校舎改築とともに学校給食の実施を」というテーマで一般質問を行いました。山本町長は、この時はじめて「学校統廃合とともに学校給食を実施する」と態度表明し、この態度表明が現在の給食実施につながりました。
そこからもさらに給食実施には、ドラマがありましたが、町と住民との長い綱引きは、住民の要求実現という形になりました。
2人の日本共産党議員は、何度も何度も学校給食問題を取りあげて、道を切り拓いてきたと思います。

24年間の努力を、多くの町民のみなさんは肌で感じてくれている、そう思います。住民のみなさんの実態と切実な願いが、根本的な力になって、事を動かして来ました。日本共産党の議員は、住民の実態や願いを取りあげて、議会で施策の実施を迫ってきました。このことに対する信頼には、熱いものがあり、積みかさねてきて本当に良かったという感慨があります。多くの人に会って話をすると、笑顔がかえってきます。強い信頼感には、胸が熱くなり、目頭が熱くなります。議員として、精一杯がんばってこれたことは、精一杯生きてきたことの証であるような気がします。「社会一般のために立ち働く」という言葉をほんの少しでも体現できた人生は、手応えのある人生だと思います。

かつらぎ町は、過疎化と高齢化、少子化のなかで、未来の展望が描けないような深刻な事態が広がっています。日本共産党の議員は、次第にこの最も困難なテーマに向きあうようになってきました。向き合い始めたこのテーマは、ものすごく大きく、困難なものです。展望を綺麗に描くことはできません。できるのは、諦めずに立ち向かうことだと思っています。高齢化によって、病院に行ったり買い物に行くこと自体が困難になっています。子育て世代の中にも貧困が広がり、生活上の困難やDVや虐待などいろいろな問題が複雑に絡まり合っています。
ぼくは、地域の活性化とともに高齢者や子育て世代に横たわっている貧困の問題に真正面から向きあうことの重要性を感じています。
多くの要求を実現はしてきましたが、ぼくたちが積みかさねてきた仕事は、今直面している困難を突破する力として生かさなければなりません。24年間の歴史は、次の未来をひらく力として、その土台となるものだと思います。

学校給食実施を突き動かしてきた力は、住民の中にこそありました。今直面している困難を打ち破る力も、住民の中にあると思います。丹念に話を聞きながら歩くことに、重要な意味があると思います。


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雑感

Posted by 東芝 弘明