第10回わかやま住民要求研究集会

雑感

「第10回わかやま住民要求研究集会」に参加した。午前中は、岡田知弘教授(京都橘大学教授・京都大学名誉教授)の講演だった。この方の講演を聴くたびに、新しい学びの粒が自分を刺激してくれる。地方自治体の根本的な原則は、団体自治と住民自治にあるが、かつて、団体自治と住民自治の結合によって、実践的住民自治という考え方を教えてもらったのも、岡田先生のお話と本だった。今回は、住民主権とは何なのかを改めて考えさせられた。国民主権というのは、まず国家との関係で国民主権が憲法の規定によって明確にされている。そこからさらに踏み込んでいくと、一体どの場所で国民主権が徹底されるのかという命題が出てくるし、国民主権を基本にして、住民主権(住民と国民とを比べると住民の中には外国人も入っている)という考え方が出てくる。

今回の講演では、住民が生活している市町村という場で住民主権が徹底的に実現することを考えさせられた。コロナ対策の中で県と市町村の連携が実現せず、国の規制もあって新型コロナの患者数さえ地域的には明らかになっていない。このなかで市町村のコロナ対策には、大きな制限が加えられている。ここには国が情報の開示を基本的には制限している問題がある。しかし、市町村が国の通通知などを積極的に活用すれば、この問題も突破できることは明らかだ。しかし、県内の29市町村(和歌山市には独自の権限がある)は、徹底的に市町村で何ができるかを研究して、県に対し改善を求めるとともに、自治体の自主的なコロナ対策を構築するということにはなっていない。

地域で面的に発生する感染症を、地域の中で押さえ込むこことが感染症を克服する道だと岡田先生は語った。感染症の歴史がそのことを物語っている。感染症を押さえ込むためには、市中村こそが感染症のクラスターや震源地を把握して、徹底的に対策を講じることが重要になる。しかし、安倍政権と菅政権は、この方向に道を開くこともできるのに、都道府県と市町村の連携にくさびを打ち込んで、柔軟な連携ができないようにしてきた。
ただし、インフルエンザの蔓延期になりつつある中で、具体的な対応策として、地域における新型コロナ対策に道が開かれつつある。今までPCR検査の体制を住民に開示できなかったが、医師会と連携して地域で広く対応できるようにすれば、PCR検査を大きく増やすこともできるし、住民の側から見ても、風邪の症状が出たら自分の判断でPCR検査を受けられる医療機関にアクセスできるようになる。
岡田先生の講演では、韓国は、地域ごとの細かい感染マップを公表して、情報公開に基づく徹底した感染対策を行っていることが紹介された。和歌山県が保健所管内における感染症患者の発表という、近畿で言えば他の府県とは違う公表の仕方しかしていないやり方が、いかに問題の解決につながらないかが、よく分かった。

今日の講義では、市町村がもっと積極的に、自主的に新型コロナに対する情報を自分の努力によって把握して、地域における新型コロナ対策を実際に実践できることが示された。それは現実に世田谷区の取り組みによって道が開かれていた。
世田谷区は、地域における感染者の状況を病院などに問い合わせながら把握して、いつでも、どこでも、だれでもPCR検査を受けることのできる体制を構築して行きつつある。カギを握っていたのは、世田谷区と医師会との連携だった。奈良県でも地域におけるPCR検査の拡充で道を切り開いたのは、市町村と医師会との連携だった。ぼくが9月の一般質問で提案した医師会と市町村との連携は、ぼくが思っている以上に重要な意味を持っていたということだろう。

ぼくたちも、ただ単に県に情報の開示を求めつつ、県を批判するだけではなく、地域における住民主権を実施するために、現状でも出来ることがあるという観点で足を踏み出すべきだということだ。岡田先生の以前の講演では、県と市町村による経済対策には、基本的に権限についての違いはないという視点を示したことがあった。このときも目からうろこが落ちたが、今回のコロナ対策でも、市町村における地域住民主権の考え方で、ことを起こしていけば、変化は起こせるということが鮮明だった。カギを握っている考え方は、市町村という住民が生活している現場で、国民主権と住民主権を実現するということだ。この考え方を貫いていけば、道は切り開ける。

地域住民主権。この考え方が根底にすわれば、地方自治体の自主性は、もっと多方面に発展する。今日の講演からぼくが学び取った中心はここにある。団体自治と住民自治の結合のさらに根底に、団体自治としても、住民自治にしても、地域住民主権という考え方を据える。この考えの具体化として、行政と住民との協働がある。非常に理論的にすっきりと整理できた。この考え方を力にして、国民主権を市町村の現場で具体化したい。ここには無限の可能性がある。地域から国政を変えようという展望も切り開かれる。ワクワクしてきた。

午後は子育てと教育の分科会に参加した。コロナ対策で学校がどうなっているのかというレポートと、HSP(Highly Sensitive Person)、HSC(Highly Sensitive Child)のレポート、高校におけるコロナ禍の中での高校生の就職支援についてのレポートがあった。
HSCのお話は、初めて聞かせていただくものになった。ひといちばい敏感でとても共感性の高い子どもの中には、HSCと呼ばれる子どもがいるというお話だった。HSCの子どもの傾向として、1)深く処理する2)過剰に刺激を受けやすい3)全体的に感情の反応が強く、特に共感力が高い4)ささいな刺激を察知するということが指摘されている。レポートでは、実に自分の子どもの特徴をよく捉えており、対応している姿が伝わってくるものだった。そこにあったのは子どもに寄り添うお母さんの姿だった。

この話を聞きながら、ロシアで社会主義革命を指導したレーニンはこの一人だったのではないかと思いながら聞いていた。レーニンは徹底的に自分の考え方や行為を点検して追及する傾向をもっていたし、物事の本質を徹底的に明らかにしようとする傾向をもっていた。この性質によって、何度か精神的な静養を必要とした。宮崎駿さんなどのように妄想が無限に膨らんで行くような人、うちの娘も頭の中で物語がどんどんできてきて何時間も何か月も頭の中で楽しめるのも、こういう傾向の表れかも知れない。
人は、色々な側面をもって生きている。実際のHSCの子どもの中にも無限といっていいほどの傾向があるし、普通の人という定義の中に入る人の中にもHSCの傾向をもっている人はいるだろう。刺激に対する、もしくは外界に対する脳の反応の仕方に特徴があって生じていることなので、HSCは治るというものではないということだ。
このような反応の仕方をする子どもの状況をよく捉えて寄り添うことが子どもの成長につながるということなので、個別で最適な教育の必要性を痛感させてくれる話だった。

こういう子どもにとって、日本の学校教育は、対応不可能な傾向をもっている。もちろん、現場の教師は、事例報告のあった子どもに対しても一生懸命だったと思われる。それでも型から入る教育が横行し、校則が強められ、子どもに「すべきこと」が大量に押しつけられているなかでの話だ。学校の自主性や教員の自主性が奪われていくにつれ、戦後の時代とともにこの傾向が強まっている。あきらかに許容範囲を超えた過度な課題が学校現場に押しつけられ、子どもも教師も悲鳴を上げている。今後GIGAスクールの具体化、IoTの具体化の中で、さらにこの悲鳴は高まると思わざるを得ない。小学校には英語教育の具体化もある。
どこかで今の教育のあり方をリセットして再構築することが求められている。おそらくそれは、政権交代なしには実現しない。憲法と子どもの権利条約に基礎をおいて、学校教育を再編成する夢を見ながら話を聞いていた。

高校の教師の就職援助には頭が下がった。同時にどうして教師がここまで就職援助をしなければならないのか。日本の教育は、掃除から消毒、就職援助まで教師に押しつけてまかなわれている仕組みを感じた。尾木直樹さんは、オランダの個人の特性を十分に生かすことを実現している教育を紹介しながら、「日本の教育はオランダと比べると100年遅れている」と言っていたが、就職援助にも支援体制の決定的な遅れが見えてため息が出た。


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雑感

Posted by 東芝 弘明