エンゲルスの根本矛盾の規定をめぐって

雑感

哲学の講師をつとめるために、いろいろな本を読んできたけれど、今日は、エンゲルスの『空想から科学へ』の経済学の部分を読んだ。テキストは不破さんの『古典教室』と『古典への招待』(中)だ。資本主義の根本矛盾を、ぼくたちは長い間、エンゲルスの『空想から科学へ』の規定に基づいて理解してきた。
しかし、この規定は、不十分で重大な弱点を含んでいることが、不破さんの研究を通じて明らかにされている。

今日は、このテーマについて感想を書いてみたい。感想なので不破さんの論文を紹介するような形はとらない。ぼく自身の言葉で書くものなので、間違っている可能性もあることをお断りしておく(ということは、不破さんの表現していない書き方をしているということ。東芝オリジナリティーという文章が的を射ているかどうか。それを見抜いてもらえるかどうかは、読む人の力量にかかっている。というように偉そうに書いていると、ものの分かっている人にコテンパンに書かれそうだ)。

エンゲルスは、唯物論と弁証法を十二分に理解した人物だったが、資本主義社会に作用している資本主義固有の経済法則については、マルクスほど具体的な事物の具体的研究をしてきた人ではなかった。エンゲルスは、マルクス以上に自然科学や軍事に詳しかった。もし、エンゲルスが、マルクスのように徹底的に資本主義社会を研究していたら、『空想から科学へ』の経済学の分野は、おそらく違ったと思われる。
マルクスは、エンゲルスからの資金援助もあって、資本主義社会の経済法則を克明に明らかにするために研究に没頭した人だった。それは、エンゲルスという天才的な人物をして、「第2バイオリン」と自己を表現し、マルクスに敬意を払ったことにも現れている。

マルクスの資本主義分析に触れていると、新しい概念を膨大な形で作り上げていることに驚く。それらの概念は、思いつきではなく、事物の本質に徹底的に迫るための具体的研究に裏付けられた結果、生み出されたものだというのを痛感する。資本主義の経済法則を新しく解明するためには、どうしても新たな概念を打ち出す必要があった、という形で、概念規定が行われ、新たな用語が編みだされた。
「資本主義社会」というネーミングは、マルクスが行ったものだが、この用語が確立するまでには、かなりの時間がかかっている。
商品の価値には、使用価値と価値があり、使用価値は商品の具体的性格を表し、価値はその商品を生産するのに必要な社会的な労働時間によってはかられる、という規定や、商品の使用価値は、人間の具体的有用労働に照応し、商品の価値は抽象的人間労働に照応している、という規定もマルクスが作りだした規定だが、一体これらの概念規定に至るまでに、どれだけ長い研究が必要だったのだろうか。たった一人で解明した力量は群を抜いている。エンゲルスは、マルクスが亡くなったとき、追悼の言葉で「人類は頭一つ低くなった」と言ったが、その言葉には言葉どおりの重みを感じる。ヨーロッパで、この1000年間で最も偉大な人物はという問に「マルクス」がトップに上がるのには、それだけの根拠があるということだろう。

不破さんの解説によると、エンゲルスが『反デューリング論』を書いたのは、マルクスがようやく資本論第1巻を発刊していた時期(資本論の第2巻と第3館は、マルクスの死後、エンゲルスが遺稿の中から発見し編集したもの)にあたり、エンゲルスはマルクスの『資本論』1巻以後の研究を読むことはできなかった、ということだ。
エンゲルスは、資本主義社会の根本的な矛盾は、生産の社会化と資本主義的取得の矛盾にあるとした。これは、一見、生産力と生産関係の矛盾というとらえ方に見える。しかし、これはエンゲルスの独特の把握であって、具体的な事実の具体的探究の結果として、到達した結論だとはいいがたい(こういう風に偉そうに書いているが、これを見極めたのは不破哲三さんです。すごいですね。)。これは、エンゲルスのように弁証法的なものの見方、考え方ができる人でも、物事の本質に迫るためには、徹底的に事実にもとづく研究と分析が必要になるということの一つの証明になっている。

マルクスは、資本主義社会の根本矛盾は、剰余価値の生産そのものにあるという立場だった。資本主義的な生産関係というのは、資本家と労働者による人間関係によって成り立っている。資本が労働者を生産に従事させて剰余価値を得るためには、労働者を搾取する必要がある。搾取によって得た価値こそが剰余価値である。これは通常利潤と呼ばれる。資本は、あくなき利潤追求のために生産のための生産をおこなう。資本家にとっては、剰余価値を手に入れて資本を増殖させることが唯一、最大の目的になる。
資本主義は、労働者を確保して剰余価値を手に入れることによって、生産力を飛躍的に増大させてきた。資本主義以前の封建的な生産関係が成し遂げられなかった膨大な生産力を実現できたのは、資本が、資本主義的な生産関係のもとで剰余価値を手に入れたからにほかならない。
資本主義的な生産関係には、資本主義特有の生産関係が照応する。資本主義的生産関係に照応する生産力を支えているのは、資本主義的な搾取に基づく剰余価値の生産であり、ここに資本主義の根本的な矛盾がある。資本の蓄積のために、資本の側は労働者を徹底的に詐取する。その結果、労働者の側には低賃金に押し込めるられる。これは、労働者の賃金を切り下げ、国内市場を狭くする。
資本主義的な搾取の仕組みが、生産力を飛躍的に発展させる条件になり、資本主義を飛躍的に発展させてきた。しかし、この資本主義的な搾取こそが、やがて生産力発展にとって最大の桎梏になって現れる。マルクスは、資本論の中でこの問題を具体的事実に基づいて徹底的に明らかにした。

生産の社会化は、それだけでは、生産力の飛躍的増大という力にはならない。生産の社会化と資本主義的取得の矛盾というのは、社会的生産なのに取得は私的なものに留まるというものだ。この矛盾から資本家とブルジョアジーの対立があらわになり、個々の工場における生産の組織化と市場における生産の無政府性が現れるというのが、エンゲルスのとらえ方だった。このとらえ方の中には、資本家と労働者の対立が現象形態として扱われるとともに、剰余価値の生産が全く視野に入らないというものになっている。
マルクスの分析は、剰余価値の生産そのものが、資本家と労働者の対立(搾取)の中から生まれるというものであり、この対立が、低賃金と国内市場の狭さとなって現れるというものになっている。エンゲルスは、資本主義の恐慌を生産の無政府性にもっぱら求めている。しかし、マルクスは、生産の無政府性だけでは恐慌は可能性に留まるとしている。恐慌にはいろいろな形態があるけれど、そのひとつは、資本の中には富を蓄積し、労働者の側には貧困を蓄積し、生産に次ぐ生産がせまくなった国内市場と矛盾する結果として生まれる。

マルクスの言葉を引用しておこう。

「資本主義的生産の真の制限は,資本そのものである。資本とその自己増殖とが,生産の出発点および集結点として,生産の動機および目的として,現われる,ということである。生産は資本のための生産にすぎないということ,そして,その逆に,生産諸手段は,生産者たちの社会のために生活過程をつねに拡大形成していくためにだけ役立つ諸手段なのではない,ということである」「資本主義的生産様式が,物質的生産力を発展させ,かつこの生産力に照応する世界市場をつくり出すための歴史的な手段であるとすれば,この資本主義的生産様式は同時に,このようなその歴史的任務とこれに照応する社会的生産諸関係とのあいだの恒常的矛盾なである」(『資本論』新日本新書第9分冊,426~7ページ)。

「資本主義的生産の真の制限は,資本そのもの」というのは、ものすごく意味深だ。究極のところ、やがて資本の価値増殖そのものが、資本主義的生産の桎梏になるという意味も、この言葉には含まれているように見える。


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雑感

Posted by 東芝 弘明