二つの短編小説

雑感,出来事

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机の上にあった『民主文学』11月号の袋を破って中身を取り出して見ると、旭爪あかねさんの短編が掲載されていた。
読んでみた。この人は短編をどう書くのだろう。そんな気持ちが湧いてきた。
「約束」と題する小説は、シングルマザーとなる女性の日常の生活を描いていた。ドラマが大きく展開するという話ではない。8歳の息子と交わした「お母さん、もう、悲しいときにはお酒を飲まない」という約束を守ったことを息子が結婚するその日に、息子のお嫁さんになる花嫁に語る後半部分に心惹かれるものがあった。
読み終えて、雑誌を閉じてもう一度表の表紙を見ると、旭爪あかねさんの横にかがわ直子さんの「八十路の春」という短編小説の表題があった。

かがわ直子さん。

しばらくするとベレー帽をおしゃれにかぶった何とも優しそうな本人の顔が浮かんできた。
認知症の夫を介護をし、その夫を見送ったあとで、しばらくしてケアハウス(有料老人ホーム)に入る信子という女性の姿を描いた作品だった。そこで暮らした4か月間ともう一度自宅に戻る決意をする状況が描かれている。和歌山の言葉で書かれた小説は、自分たちの生活が描かれているような匂いがある。
夫が認知症になって、夜中に徘徊したとき、寒い冬の街を探して歩く信子の姿が印象に残る。
自分たちは、年代の違うお年寄りに対して、勝手に「おじいさん」とか「おばあさん」とか言ってひとくくりにしているような見方がある。しかし、自分が50代になると、そこには、一般的な初老に近い人間がいるのではなくて、ほとんど若い頃とは何も変わらない具体的な自分がいることに気がつく。60歳になっても、70歳になってもおそらくは、同じような感覚のまま、分別もなく年を取るに違いない。
かがわ直子さんの「八十路の春」には、80歳を超えた女性の生き生きした姿がみずみずしさを込めて書かれていた。

小説に壮大なドラマはいらない、ということを書いたのは高橋源一郎さんだった。もちろん、ストーリーの立ったエンターテインメント小説には、ほとほと感心するのだけれど、浅田次郎さんや池井戸潤さん、宮部みゆきさんの構造的で立体的なお話しの面白さには天才を感じるのだけれど。日常生活を生き生きとリアルに描き、そこに人間の喜びや悲しみ、苦悩が描かれている小説に出会うと、そこから色々なものが目の前に立ち現れてくるような気がする。そういう小説は、自分たちの日常生活に、何の変哲もない日常に物語性があることを語りかけてくる。

人間の生活と人間の本当の思いや気持ちをリアルに描く小説が、小説界の片隅に追いやられて、エンターテインメント性の強いものばかりがヒットしている。映画化される作品もエンターテインメント性の強いものの方が多い。ぼくも、自分の自由になる時間ができると、アクションものの映画に触手が動いたりするのだけれど、本当に深く人間を知るためには、日常の生活の中に生きる人間を描く小説や映画に触れるべきなんだと思う。

小説を読まなければ、時代の中で生きている人々の気持ちは理解できない。小説には、理論書には到底真似のできない描写という表現方法があり、作品世界には、現実の中に生きる人間が浮き彫りになる。
ぼくは、若い頃からそんな風に考えてきた。
では、今も、そういう思いをもって探究を続けているのか、と自分に問いかけると、「否」、という答えが浮かんでくる。

今日読んだ2つの短編は、そんなことを考えさせてくれた。
「日常生活の中で生きている人間を描いた作品をさらに読んでみたい」
今日の読書は収穫だった。


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雑感,出来事

Posted by 東芝 弘明