「いじめの構造」に寄せて(1)

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「いじめの構造」(内藤朝雄著)を読んでいる。
この本を読む前から、日本の学校という文化的な空間がいじめを生み出す構造をもっているように感じてきた。文化的な空間を支配しているのは、「同質性を求め続ける」というものだ。本に関わって書く前に同質性を求める文化とは何かについて、言及してみたい。
同質性の話に直接はいる前に、それとは正反対のオンリーワンということに関わって書いてみよう。そうすれば同質性の文化というものが、光をあてるように浮き彫りになる。
金子みすゞさんの詩の一節に「みんなちがって、みんないい」という言葉があり、この言葉は、詩を離れて一人歩きするほど小学生にも好まれている。
「みんなちがって、みんないい」という言葉が好かれるのは、「みんなちがって」という状況が有り難いという現実があるからだろう。「みんなちがって、みんないい」という現実がないからこの言葉を恋しいと思い、実現したらいいなという憧れをもつのだ。
ぼくの娘は、幼稚園のときに、英会話の教室で「この帽子のリボン、黄色に塗りましょうね」と先生に言われ、「お父さん、リボン青に塗っていい」と言った子だった。
面白くて個性豊かな子どもだった。
「きよしこの夜」の合唱のときに1人だけ歌わなかった子で、「何で歌えへんかったん」と問うと、「好きな歌やから黙って聞いていたかった」と答えた子だった。
しかし、同時に他人とは少し違う感じ方と考え方をもった娘のことは心配でもあった。心配は「集団に馴染むだろうか」ということに集中していた。
娘は、小学校の2年生になってしばらくすると、ランドセルに付けていた黄色の安全反射板を取りたいと訴えた。
「だって、みんなもう付けてないもん。これ付けてるのはもう2人ぐらいや」
これが娘の言い分だった。
3年生になった夏休み、娘は「○○ちゃんがクラスの中で浮いている」という話をし、「私が優しくしたら私も○○ちゃんと同じように見られてしまう。私もいっしょに見られてしまう。それが恐い」と言った。
「『みんなちがって、みんないい』という言葉が好きだったんと違うんか」と聞くと、
娘はすぐにこう答えた。
「お父さん、ぞうさんの中にキリンさんが1匹入っていたらおかしいやろ」
「えー、『みんなちがって、みんないい』って言葉が好きなんやったら、ぞうさんの中にキリンさんがいることが『みんなちがって、みんないい』っていうことになるんと違うんか」
返答に困った娘は、
「もう、この話、いや」
といい、話はここでおしまいになった。
4年生になると娘は、「お父さん、もう『みんなちがって、みんないい』と違う。「みんな同じで、みんないい』や」と話したことがあった。
1年から5年生の小学校という文化の中で5年間生活してきて、娘の身に染みこんできたのは、「みんな同じで、みんないい」という習慣なのかも知れない。
学校は、子ども一人一人の個性を丸くしていき、角を取り、同質化していくような文化の中にあるのかも知れない。
同じ制服、同じ体操服。個性を伸ばすのではなく、「みんなといっしょ」を絶えず再生産している文化が空気のように学校を支配している。同じ中にいると安心する人間性は、ぼくたち大人の中にもある。
会議を開くと最前列には座らない日本人。一番先頭に立つことを嫌って先に歩き出すのを譲り合う日本人。こういう性質は、どこから生まれてくるものなのだろうか。
「一人一人の子どもを個性豊かに育てていく」
この言葉は、今日の教育の一つの目標だが、これとは相反するような文化と現実があるのではなかろうか。
1年生のときにある先生は、娘のことについて、
「競争社会ですから、もう少し字を書くのを早くしてあげて下さい」と言ったことがある。
5年生になると、
「『みんなちがって』ということを続けていると、中学生などの高学年になるとみんなから嫌われる」という趣旨のことを語った先生もいた。
同質化を求める空気は、学校の中だけではないだろう。こういう心理が働くような空間は、日本社会のさまざまなところに存在している。
しかし、社会全般に目を向けていくと、実に個々人の個性が発揮されている集団もあるのがわかる。
違いはどこにあるのだろう。
それは、もしかしたら組織の環が閉じられているのか、それとも組織の内外に向かって開かれているのかという差なのかも知れない。
環が閉じられた組織(地域社会な場合もあるだろうし、ゆるやかな集団の場合もあるだろう)は、同じ空気を吸い、呼吸をし、行動を共にする中で独特の文化を生み出していく。これが悪しきものを組織の中に生み出していく。その人間の集団の中でしか通用しない習慣や文化やきまり。組織の中では常識的なことだが、世間から見ればおかしいというような関係が生まれてくる。
本来の学校は、閉じられた環ではなく、政治・社会・経済・文化に向かって開かれたものであるべきだろう。
しかし、日本の学校は、日本独特の学校文化というような中にあり、次第に「みんな同じ」という感覚を子どもたちに培っていく。それは、大地に水が染みこむように当たり前のように浸透していく。
「みんなちがって、」は本来は当たり前のことだろう。しかし、「みんなちがって、みんなが疎ましくなる」という文化が学校の中には存在するのではないだろうか。
ぼくが今日書いたことは、非常に感覚的なもので実証的に検証されたものではない。問題意識という程度のものだろう。しかし、こういう視点を保留しながらいじめの問題を考えていきたいと思っている。
いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)/内藤 朝雄

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Posted by 東芝 弘明