宝物

雑感

かつらぎ民報6月議会報告がようやくできた。3月議会報告の印刷もできていないので、2号同時に配布することになる。字ばかりの民報なので、一度に配布したら読まれないかも知れない。でもまあいいか。

8月は、かつらぎ民報の臨時号も作ることになった。自分の言葉で戦争法案反対を語ることにしようとなった。

8月15日が巡ってくると母のことが思い出される。
母が17歳の時に亡くなってしばらくしてから母が書き残した3冊のノートを妹と見たことがあった。母の残した形見だった。この形見は妹が持っている。
母は病院のベッドの上でこの短歌と俳句と日記を書き、新聞の短歌欄にも投稿していた。
8月15日、その日が近づいて来ると母の思いは終戦のころに戻っていった。
この短歌を読んで、母の許嫁が8月6日、沖縄の海で亡くなったことを知り、母が終戦の日に日本が負けたと言って泣いたことを知った。
20歳の頃の母は、どんなに若々しかっただろうか。教壇に立ち、疎開してきた子どもたちを教えていた母の姿は、どんなに輝いていただろうか。

軍国主義の時代の中で、子どもたちと触れあっていた母の話は、子どもの頃何度も聞かされた。おとぎ話をいつもそらんじて話してくれた母は、若い頃の話も、物語のように語ってくれた。子どもたちと若い先生である母のお話は、明るい笑いに満ちていた。東京から疎開してきた女の子は「赤勝て、白勝て」のイントネーションが和歌山とは全然違うという話もあった。イントネーションを真似して母が語る運動会の話には、いつも笑いが存在していたので、戦争時代だといっても、灰色のトーンではなかった。土曜日、学校に残って職員室にいると同級生が立ち寄ったという話も、何度も聞かされた。
「出征や」と話しかけた同級生は戦死したのだという。

母の短歌は、8月15日への思いに溢れていた。戦争への思いを書きながらその横に、先に死んだ父に対して、「どうして吾を守らぬか」とも書いていた。
戦後70周年。母が生きていたら90歳。戦後何十周年という節目を数える時にいつも自分で計算するのは、母の年齢だった。
生きていたら何歳になる。この数え方も、母の年齢が80歳を超え、90歳になってくると、どうも現実感がなくなった。病弱だった母の80歳、90歳はどうも具体的な像を結ばない。
「もう戦争体験を直接語ってくれる人が少なくなっている」
ぼくは繰り返し会議の中でこういう話をしているが、その意識の先には母の年齢がある。
20歳の時に母の戦争は終わった、という意識は、母がまだ生きている時から存在した。その年齢が自分の意識に中にもっと強く存在するようになったのは、日本共産党員になって戦前や戦後の歴史を繰り返し学ぶようになってからだ。自分の年齢と歴史的な事件を重ね合わせることとともに、母の年齢と日本の歴史を重ねることは、ぼくの中で日常茶飯事だった。
母は、大正15年生まれだった。昭和とともに年齢を重ねた人だった。戦後70年というのは昭和90年。

8月15日の終戦記念日。70周年という今年、戦争反対をぼくたちは叫んでいる。憲法9条の下で戦争反対の話を真剣に訴えなければならないのは異常なことだと思う。母は、教師として終戦を迎え、日本が戦争に勝つと信じていたので涙を流している。その後、母たち教師は、教科書に墨を塗り、「教え子を戦場に送るな」というスローガンのもとに集まって、組合活動に参加していった。和歌山県の教師の中に吹き荒れた勤務評定闘争のときも、母は田舎の学校だったけれど組合員を辞めずにその信念を貫いた。母の生きてきた道を母の豊かな語りで補うことはできなかったが、母が歩んだ戦後の道は、民主主義的な教育という道に真っ直ぐにつながっていた。アウトラインしか知らない息子のぼくは、そう確信している。

「あなたのお母さんは、私たちのすすめで党に入ったんですよ」
ぼくが27歳の時に、小柄な年配の女性の元先生からそう話されたことがあった。
ぼくが17歳になる直前に母は死んだ。2月のその日は、温かかった気温が一気に下がり、その冬一番の寒さとなった。母が死ぬまで、ぼくは政治の話も日本共産党のことも全くしたことがなかった。知っていたのは、母が自民党を支持していなかったということだった。ぼくは、ぼくに働きかけてくれる人々の影響を受けて18歳になって1か月ほどが経ったときに日本共産党に入党した。それから9年、ぼくはすでに共産党の専従者になっていた。「あなたのお母さんに党に入ってもらった」という話は、ぼくと母を新たに結びつけてくれるものだった。
母は、戦後の教師の歩みの一つの結論として日本共産党を選択していた。
「すぐに病気になって活動はできなかったんだけど」
元先生はそう言った。
ぼくが中学生になったときに、家族で笠田の街に出てくると、母は朝日新聞とともに赤旗の日刊紙をすぐに購読した。そのことの意味はぼくには全く分からなかったし、家に入り続けていた赤旗を読んだこともなかった。ぼくが赤旗を読み出したのは、日本共産党に入党してからだった。母が取り始めた赤旗は、何の会話もなしにぼくに受け継がれていった。
母が入院する前に党員になっていた話を聞いていてから、ぼくは地区委員会にある古い入党申し込み用紙を探したことがあった。申し込み用紙に母の名前があった。紛れもない母の字だった。

ぼくが日本共産党の専従者になり、議員になった姿を母は全く知らない。母に導かれたわけではない。自分でこの道を選択したのに、ぼくの前には母がいたことになる。ぼくには3人の兄弟がいる。ぼく以外の2人は、母が党員だったことを知らない。これは兄弟のなかではぼくだけの秘密になっている。
そう、一つぐらい母がぼくだけに残してくれた宝物があってもいい。母につながる道をぼくは歩いている。
母がぼくに残した宝物。ひと筋の道。


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雑感

Posted by 東芝 弘明