何でも出し合える会議とは?
学習会でいつも行なっている運動について「本音で語るとは何か」ということが少しわかった。何を語っても会議に参加している人が「相手の発言を受け止める」ということだろう。受け止めるというのは、否定や反発をしてはならないということだ。
「何でも出してください」と言いつつ、発言したら批判されたり否定されたら、それ以上に深い話はできない。「何でも出していいですよ」と言いながら、発言を否定したら、結局はその発言を「なし」にする力が働くということだ。
その場で即興で行われる多くの発言は、なかなか意を尽くしたものにはならず、不十分なことが多い。それに対して発すべきなのは、不確かな点をさらに聞くことであってカウンター的に否定したり反発することではない。
運動していると困難や悩みに直面する。うまく行った事例は発言しやすいが、うまく行っていないことは発言しにくい。発言を聞いていると、うまく行っていないことについての発言は、参加者を信頼して相談するということだということに気がついた。悩みや困難なことが出されたら聞きおかないで、双方向で意見交換するようになればいい。
どんな意見でも出し合う会議に、とよく言うが、口で言うのは優しいが、実行は難しいし、具体的なイメージはわかなかった。出された困難や悩みに対して、参加者みんなで考えるという場になれば、話が深まると思われる。
気がついたのは、このことだった。日本人は、ともすれば、本音と建前が分離してしまう。本音を出し合って議論する必要性がよく語られるのは、上っ面の建前レベルでの議論になりがちだからだ。でも本音って何と言うこともある。本音の中には皮膚感覚的に「やりたくない」とか「いやだ」とかいうものもある。しかしそれが本音そのものの場合もあれば、そうではなく、揺れ動いていることもある。前に進めたいが進めないという悩みや困難がある場合もある。
もちろん「したくない」「しません」という発言が出ても、それは困難だが、それが中心的な意見になるのであれば、議題のど真ん中に据える必要がある。
悩みや困難なことは、みんなに相談する。出されたらみんなで考えることが大切だということを共有することが、何でも出し合える会議、何でも話し合える会議だということだろう。そういう考え方で会議に臨みたい。



