自分の頭で考える

雑感

自分の頭で考えるということにかなり関心がある。
今日は、朝、ご飯(といってもパンと牛乳)を食べながら「サワコの朝」を見た。今日出演したのは鶴瓶さんだが、そっちの方は見ないで、過去に録画していた大石静さんの巻だった。
大石さんは、アメリカ帰りのお父さんに大きな影響を受けていた。アメリカ流の個人主義が染みついている人だったらしい。
東京オリンピック(もちろん1964年)の開会式を見ていたら、父が部屋に入ってきた。
「東京オリンピックにはどんな意味があるんだ」
子どもの静さん(当時は10歳ぐらいだろう)は、テレビで聞いた参加することに意義があるとか、多くの国々が一堂に会して競技するとかいろいろな説明をした。
「本当にお前はそう思っているのか」
これが父の問いかけだった。
静さんは強がって、「そう思っている」というと、父は知らない国の名前を言って、「こういう小さい国も参加している。覚えておけ」と言って部屋を出て行った。

「お前はどう思っているのだ」
絶えず父は静さんにこう問いかけ続けたのだという。
子どもの頃は、こういう父が嫌で仕方がなかったという静さんは、しかし、今になって父の問いかけが、シナリオライターとしての力になっていることが良く分かると語っていた。

自分自身はどう思っているのか。
この問いかけは、極めて重要な意味をもっている。この問いかけは、とことん自分の頭で徹底的に考えるということに繋がる。自分自身はどう思っているのか、という問いかけは、勝手に自分だけの考えで暴走しろと言うことを言っているのではない。
テレビや新聞や雑誌や本が語っていることが、果たして本当なのかどうか。世間の通説を疑ってかかることの意味も静さんは語っていた。世間の通説を疑ってかかるというのは、自分の頭で考えて自己検証しなさいということを含んでいる。そう、物事は肯定的に理解しつつ、否定的にとらえるというものの見方が大切なのだ。

その出発点として、自分自身はどう思っているのか。これを基礎に置くことがきわめて大切なのだと思う。
自分の中にある培われてきたものの見方考え方の基本。その基本をいつの時期に確立していくのか。
高校を出て、大学に入り学問のなんたるかをかじり始めた頃、ぼくの場合は、科学的社会主義の経済学と哲学に出会った。最初に学び始めたのは経済学だった。そのあと、経済学を学ぶためには哲学を学ぶ必要があることを知ったので哲学を勉強し始めた。これが、自分のものの見方考え方の基礎にある。
哲学は、物質の成り立ちを学ぶ。物質は、1つのものの中に相反する2つの傾向があり、時には反発しあい時には相互依存の関係にありながら、他の物質との諸関係を形成する。すべての物事(物質も含め)は連関と連鎖の中にあり、物事はこの連関と連鎖の中で普段に運動している。イメージ的には、ネバネバ納豆のようにものごとはつながっているということだ。
物理学が扱う物質もしかり、社会学があつかう社会もしかり、経済を動かしている運動もしかり、それを総合している歴史もしかり。
自分の周りにある人間関係も、すべて連関と連鎖の中にある。お互いが互いに影響し合いながら運動している。人間の意識も同じ。

ものの見方考え方で基本点は3点ある。これは弁証法的なものの見方の基礎になる。
1つは、すべての物事が連関と連鎖の中にあることを大胆に認めるということ。
2つ目は、すべての物事を生成と発展、消滅の過程、つまり運動の中でとらえるということ。
3つ目は、固定した境界線はないということ、反対物への転化もあり得るということ。

こういうものの見方で物事を把握していくということ。つまりこの3つの観点を「導きの糸」として物事を把握することから対象に接近していくということだ。
そのときに、意識と物質の関係をきちんと把握しておくことが重要になる。人間の意識は、脳の働きが基本になっている。脳は、人間の五感から得られる情報が脳に伝わることによって、外界を認識する。つまり手や足、体を通じて脳はものを考えているということである。人間の意識は、物質の働きによって支えられており、精神は物質の反映だということをきちんと把握しておくことが重要になる。精神の基礎は物質にある。物質の発展によって、人間の精神は形成されてきた、ということを知った上で、物事を見ていくことが大事になる。こちらの方の考え方は唯物論ということになる。

以上書いたことは、すべて「導きの糸」。大切なのは、このものの見方考え方を基本にして、具体的な物事の具体的な姿を把握していくことにある。導きの糸によって裁断するのではなく、あくまでも具体的な事実によって、物事を把握していく上で、唯物論や弁証法的なものの見方が役に立つというものだ。こういう視点を忘れず物事を探究していくと、最初もっていた認識が、豊かな内容をもって改めて立ち上ってくる。
人間の第一印象は、きわめて表面的で直感的な場合が多い。そこから出発して調べていくと、最初の第一印象は何度も何度も否定されて作り変えられていく。そうやってたどり着いた認識は、非常に豊かなものになる。第一印象は全体に対する認識でもある。それを深く知っていく過程というのは、部分や枝葉にも入り込んで行くことを意味する。分析を重ね分け入り、底までたどり着いたら、今度はもう一度全体的な把握に戻る努力をする。そうやって得られた全体像は、その物事の構造的な把握をも実現する。最初の印象的な認識と研究の末の新たな認識は、同じ全体像の把握を意味するが、同じ全体に対する認識でも内容は全く違っている。

昨年の今頃、だれがシールズのような運動、国民の老若男女が、国会に集まってきて、日本国憲法を守れ、立憲主義を守れという運動を予想していただろうか。国民のなかから沸き起こったこの運動をどうとらえるのか。これが今の日本をとらえる上でも非常に大事な問題になっている。
戦後70年が経って国民の中に日本国憲法の基本原則が広く支持され、定着していることが、国民の運動によって明らかになってきた。この国民運動に押されて野党5党と参議院の1会派による共闘が実現した。日本共産党は、この運動が起こるまで政党間の共闘による連合政府という認識をもっていなかった。いずれ、国民の要求に根ざした新しい政党が生まれる。その時に日本共産党は、その新しい政党とも力を携えて連合政権をめざす、こういうものの見方をしていた。
しかし、この認識を国民運動は超えて行った。国民の団結が政党を動かし、利権主義を守れ、民主主義を守れという一点で自民党に変わる連合政権を作ろうという提案ができるようになった。このような事態を切り拓いたのは、国民による運動だった。国民が、野党に対し団結し自民党政権を倒して欲しいという願いを鮮明にしている。この願いに応えなくて何が政党か、という状況が進んでいる。

この変化を深くとらえて日本共産党は行動を起こした。ここにも哲学のものの見方、考え方が生きている。
野党間の共闘は、野合ではない。目標は極めて明確だ。戦争法の廃止、閣議決定の撤廃、そのために自民党に替わる連合政権を作ろうということだ。
ただ単に数あわせで協力しようとか、反自民で結集しようとかいうものではない。戦争法の廃止と閣議決定の撤廃のための連合政権の樹立、この旗の下に力を合わせようというものだ。大胆かつ柔軟な提起、しかも原則を踏み外さない明確な目標に基づく提案。
これが実現したら、戦後の日本歴史の中で、国民の意思に基づく新しい政権が誕生する。暫定的な政権とはいえ、この政権の樹立は、日本歴史の転換点になる。

日本共産党は、1961年から一貫して統一戦線の確立を追求してきた。国民のための連合政権を樹立するためには、国民の中にそれを求める運動が必要になる。民主主義的な革命は、国民の運動によって支持され、支えられてはじめて実現できる。この理論と運動を蓄積しながらさまざまな共闘を追求し、近年は一点共闘によるたたかいを重視してきた。沖縄での団結も一点共闘の結果だった。この経験と蓄積を持って、今回の提案がなされている。カギを握っているのは政党による組み合わせではない。国民の中に大きな、連立を求める運動をさらに起こすこと、ここに日本共産党が提案していることが実るかどうかの力がある。

自分の頭で考えるという行為は、以上、書いたことによって明らかになっただろうか。ぼくが書いたことは、自分の頭で考えたものになっているだろうか。それは、読んだ人の評価を待たなければならない。「だめだよ。まだまだだよ」ということであれば、努力が足りないということになる。
「後半展開した論のどこに、自分のオリジナリティがあるの?」
それは、日本共産党で活動している人に聞いてみなければならない。ぼくがここに書いたものが、新鮮に映るのであれば、何らかのオリジナルがあるということになる。「別に。当たり前のことを書いているだけじゃん」というのであれば、オリジナリティがないことになる。
さて、どっちなんだろう。


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雑感

Posted by 東芝 弘明