日本国憲法は私たちを包んでいる大気

雑感

12月Calendar

昔確実に感じることのできた年末という感じが薄れてきている。
お正月に向かって慌ただしくなる、という感じは、正月という比較的長い休みに向って、1年間の締めくくりを行うという感じがあった。そうやって迎えた正月は、静かなものだった。街はひっそりとして、シャッターには、お正月の大きなポスターが貼られ、正月明けの営業再開日が書かれていた。
しかし、最近のお正月は、そこ、かしこのお店が開いており、買い物するのもそんなに困らないという感じがする。昨日と今日とが隔絶しないので、1月1日が新しい出発のための「お休み」というものではなくなっている。お正月にも、「昨日に続く今日」という感じがある。

日本人は、四季を鮮明に記憶の中に刻み込んで生きてきた。食べ物はいつも旬の物だった。それがいつの間にか、多くの食べ物が年がら年中手に入るようになり、季節と食べ物の関係が曖昧になった。気候も地球温暖化の影響なのか、春が短くなり、夏が長くなることによって、鮮明な印象を薄れさせている。秋の紅葉が、透明感のある赤や黄色を見せてくれなくなった。四季の変化に合わせて生きてきた日本人の生活習慣が、次第に変化して「風物詩」というものが意識から遠のいている。
子どもの頃の思い出と今の生活とを比べると変化してきたことに気がつく。言い替えれば、そういう風にしないと変化に気がつかない。

四季の変化が鮮明でなくなり社会のあり方が日常の連続のようになったことによって、失われたものは大きい。人間の心は、自然や社会のあり方、身の回りの物によって、深く形づくられており、自分の意識の外にある「世界」の変化によって、無意識のうちに変化していく。無意識のうちに変化する心の有り様には、ほとんどの人が気付かない。

さて、2015年。
原発事故によって原発の中に隠されていた真実に目覚めた人々の多くは、次第に政府の嘘について、それを見抜く力を蓄えてきた。特定秘密保護法と安保関連法制の強行劇に直面して、目覚めた人々は原発事故の運動を上回る規模で政府に反対の声を上げ始めた。これらの運動は、単に反対のための反対運動ではなくなりつつある。安全保障法制が戦争法であることを見抜いた人々は、憲法を守れという旗を掲げ、安倍政権を打ち倒して新しい政権を作ろうという方向に動き始めている。これは反対を突き抜けて、新しいものを生み出す運動へとつながりつつある。
2015年、政治の季節は、変化する日本のあり方に根本的な危機感を抱いた人々によって鮮明に把握された年になった。
それでも、まだ多くの人々は、自分たちの生活が根底から脅かされつつあることに思い至っていない。
自民党と安倍政権は、あからさまにマスメディアの報道の仕方を批判し攻撃するようになった。「偏向している」という批判は、政府批判を行う報道に対して向けられている。政府の言い分を批判なしに取りあげるマスメディアの報道には、偏向しているという目は向けられていない。このような状況の中で政府から聞こえて来ているのは、「共謀罪」と「憲法における非常事態宣言」だ。
安倍政権の過激な手法に対して、賛意を表明する人も増えてきている。安倍政権は、右翼的な世論を組織しつつ、攻撃的になる人々を鼓舞しながら言論への統制と基本的人権の破壊をめざして暴走している。

立憲主義を守れ、という運動、憲法と憲法9条を守れという運動は、炭鉱労働者が自分たちの生命を守るために使っていた「カナリヤ」に等しい。この運動が政府の危険性に警鐘を鳴らしている。このカナリヤの鳴き声がどれだけ国民の心に響くのか。私たちがどれだけ自分たちの生活に忍び寄っている危機を伝えられるのか。ここに日本の未来がかかっている。
地方自治体の多くは、国の動きに対し反旗を翻さないで追随している。国民の生命と財産を守り住民の福祉を守るべき地方自治体の多くは、戦争法に対しても、意見表明することなく、黙って成り行きを見守っている。戦前の市町村や町内会は、隣組という組織まで作らされて国民を相互に監視させた。戦争反対の運動をしている人々は重大な犯罪者、非国民として、国民の手によって摘発され、逮捕され、拷問された。
戦後、国民主権が確立した。国民主権を実現する最大の場所の一つは地方自治体だろう。この地方自治体が、政府に対し意見を言わずして、地方自治体としての責任を果たせるのか。事態はもうすぐそういうところまで突き進む可能性がある。

沖縄県の運動に対する政府のとっている態度は、地方自治体にとって対岸の火事ではない。安倍政権は、地元の自治区に対し都道府県を飛び越えて基地建設の協力金としか考えられない交付金を渡そうとしている。基地建設に協力しなければ、振興予算を削減するということも行っている。基地建設反対の運動を抑え込むために、警視庁の機動隊が沖縄に派遣され住民の反対運動を抑える動きを強めている。政府に地方自治体が反対したら、現政府はありとあらゆる方法を活用して地方自治体の分断と破壊を組織するという事態になっている。いま、沖縄で展開されている政府の態度は、反対する者は絶対に許さないというものに他ならない。これら一連の政府の行為は、法治国家がすべき域を遙かに超えている。
原発に対する態度も同じ。来年度は原発再稼働を推進する自治体には交付金を増額して交付する予算が組まれようとしている。
政府のこのような態度は、戦争法に地方自治体が反対して運動したら、弾圧してくるという事態に直結するものだろう。「立憲主義を守れ」と言って立ち上がっている人々は、このような時代の動きを把握して、「戦争反対」を唱えている。このカナリヤの声にこそ耳を傾けてほしい。

年末、集金をしながら戦争法廃止の2000万署名をお願いした。声を上げる、意思を表明するということのできる時代に私たちは生きている。国民主権の時代。この時代が窒息させられたら、その先には戦争が地獄の釜のように口を開いて待っている。
「生活が大事、そんな難しいことは分からない」
そう思っている人も多いだろう。
自分の日常生活の中にいたら見えないことも多い。目の前の見えることだけ見ていたら、自分の立っている足場さえひっくり返される。歴史はそのことを教えている。満州事変が起こったとき、国民は歓喜に沸いた。それから15年後、310万人の日本人が戦争や空襲で死に、日本軍の手によってアジア諸国民2000万人が命を奪われた。遠い大陸での戦争が、自分たちの生活の根底まで破壊した。一家の大黒柱を戦争で失った人々が味わった戦後の困難。この歴史を学べば、今すべき事は見えてくる。

私たちを取り巻いている空気さえ目に見えない。私たちを生かしてくれている多くの存在さえ目に見えないものの方が多い。地球に大気という層があることによって、人間は宇宙からの放射線や紫外線から守られ、酸素の供給を受けている。大気というものがなくなったら、人間は瞬時に死んでしまう。日本国憲法は、日常生活においては空気のような存在だ。普段はあることすら意識しない。しかし、日本国憲法という規範があることによって、全ての法律が成り立っている。憲法を遵守する政府が文字通り誕生したら、長い時間がかかるだろうが、憲法違反の法律は是正される。国民の暮らしを守る役割を果たしている法律や制度の中に日本国憲法が宿っている。

安倍政権はこの空気を作り変えようとしている。「天賦人権説を止める」と片山さつきさんは自民党の憲法改正草案を説明した。基本的人権は永久不変の権利というものを破壊する言葉だった。憲法という私たちを守っている大気を破壊してはならない。

カナリヤの声よ、天まで届け。2015年。たたかいの中から生まれた希望。来年はこの運動をさらに大きく。


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雑感

Posted by 東芝 弘明