自虐史観という言葉の軽さ

雑感

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「中国が日本に攻めてくる?」という記事に対して、数人の方が何度もコメントをくれるなかで、ぼくの書いていることは、「日本叩きのネタだけをクローズアップしているだけに読める」「『日本叩きありき』で自虐ネタ収集ばかりだと辟易としてしまいます」という指摘がありました。この指摘に対して、なぜ日本の侵略戦争を厳しく見つめるのか。ぼく自身の思いはどこにあるのかを書こうと思い、以下のようなコメントを書きました。ここにそのコメントを記事として載せておきます。

日本が第2次世界大戦に至る戦争で、侵略戦争を展開し、アジア諸国に多大な犠牲を強いたという事実を見るためには、日本の加害責任を深く見つめる必要があると思っています。この姿勢に対して自虐史観という言葉をあてることには、同意できません。
ぼくの意識の根底には、徴兵され、中国戦線で斥候という任務に就いていた自分の父の姿があります。父は、数え切れないほどの中国人を殺しました。戦争が終わっても、戦争のことしか考えられないような父でした。酒に酔うと軍歌を歌い、暴力を振るっていた父は、ぼくが小学校1年生のときに内臓を壊し、退院したその日に浴びるように酒を飲んで、脳溢血になりそのまま死んでしまいました。

父が戦地でいた時間はいかほどだったのか。戦争責任という言葉がありますが、この言葉には、さまざまな具体的状況があると思います。父の行為には戦争責任がつきまとっていたと思います。父の脳裏からは、自分が殺した人々の姿が消えてなくなることはなかったと思います。歴史認識などというよりも、父の背負った責任は、なまなましい皮膚感覚を伴うものだったのではないかと思っています。PTSDという言葉がなかった時代、父と同じような苦しみを背負わされた人々はたくさんいたと思われます。そういう状況に対して何の手だても講じられなかったこと自体、不幸なことだったのではないでしょうか。
中国は、父のような日本国民に対しては、国家の命令によって従わされた国民には、戦争責任はないというような意味のことをいいました。しかし、現実はそんな単純なものではないと思います。自分が引いた引き金によって人が死に、自分の銃剣で人を突き刺したような感覚は、消したくても消えません。酒を飲んで暴れる父には、斥候としての父の記憶が絡まりついていたと思います。

戦争が終わって、20年後に父は死にました。徴兵され兵役についていた時間は、父にとって青春時代そのものだったと思います。終戦の時父は25歳だったはずです。一番楽しいはずの時代、父に許されたのは戦場と基地だったのだと思います。

非常に気性の激しい性格でした。
上官に休暇を願い出て、許可されなかったときに、父は怒りを露わにして機関銃を乱射する事件を起こしたことをぼくの従兄に語っています。
斥候という任務は、敵地と想定しているところに誰よりも先に入っていき、偵察し状況を確認するのが任務でした。
知人の父親も斥候だったといいます。10数人で偵察に行き、生きて帰ってくるのは7、8人ということはざらだったとその人の父親は語っているそうです。
父にも同じような状況がありました。父が殺した中国人の中には、女、子ども、老人などもたくさん含まれていたようです。

中国戦線における戦争とは一体何だったのか。
父の記憶には、戦争の悲惨な記憶とともに、戦場における戦友との友情があったと思っています。父が好んで歌っていた歌は、『麦と兵隊』でした。戦友のことを歌った歌です。若い時代を戦争一色で過ごし、人を殺すことを幾度も重ねていた父が、戦後酒浸りの人生のなかで思い出していたのは戦争であり、そこには戦友との友情があり、同時に忌まわしい記憶もありました。酒浸りの生活の中で、心底好きだったぼくの母に暴力を振るうようになったのは、父にとっては逃れることのできなかった運命だったのではないかと思います。

ぼくたちは、戦争を知らない世代です。日本叩きも自虐ネタ収集も、すごく軽い言葉だと思います。父の人生を思うと、日本叩きや自虐史観などという軽い言葉であの戦争を簡単にあつかえないという気持ちになります。

父は一体何に苦しんでいたのか。戦争とは何だったのか。父の人生に重ねてぼくはあの戦争を考え続けるべきだと思っています。


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雑感

Posted by 東芝 弘明