『時には昔の話を』

出来事

15日、ぼくの家に集まっていた兄貴とぼくと妹の友人が集まって「東芝くんちの同窓会」のようなものを行った。S君がシェフを務めるお店を借り切り、もう一人の料理人のS君(あらま、区別がつかないや)がお寿司を握ってくれた。
24人ほど懐かしい人が集まってきた。39年ぶりの「同窓会」だった。

母親が入院していたので、高校時代は兄とぼくと妹の3人で生活をしていた。駅前にあった家には、兄貴の友だちとぼくの友だち、妹の友だちが集まっていた。ぼくを育ててくれたのは、同年代の友だちだった。24時間営業のように回転(開店ではなく回転)していたぼくの家には、いろいろな時間帯にいろいろな友だちがやって来た。

39年前は、毎日のように会っていた友だちだったが、当然の如くみんないろいろなところに住んで、全く違う人生をそれぞれ歩んできた。39年も時間が経つと「えいやっ」と思いを込めて会う機会を作らないと、一同に介することは実現しない。
会えないと思っていたO君とKさんの姿を見たときは、ドキドキして鳥肌が立った。
「もう会えないだろうなあ」
と漠然と思っていた人たちが、目の前に現れて喋っている姿に「一期一会」という言葉が重なった。
「これはもう奇跡やで」
誰かの言葉が聞こえた。

39年前、兄貴の同級生は、社会人だったり学生だったりしたが、ぼくと妹の同級生は、まだ高校生だった。社会の入口にまだ立っていないとき、まだ自分たちが何者になるのか、自分でも分かっておらず、社会に出て働く友だちが掲げた夢には、不確実な不安がまとわりついていた。ぼくは、高校を卒業したときは、夜間大学に行くことだけが決まっていて、将来の自分の姿にたいする目標なんて形になっていなかった。「モラトリアム」という言葉で若者が表現されようとしていた少し前の時代だった。

40年近くの時間が流れた。この時間は、人生を一区切りさせるだけの大きな時間だった。もちろん、まだ現役として格闘している時間の中にいるのだけれど、若い頃の激しかった光と影が、光も影も全て楽しい思い出になって記憶に残っている。

兄貴の同級生の中にO君という人がいた。O君は、ドラマ『俺たちの旅』の中村雅俊演じるカースケが自由に生きていたように、ぼくたちにとっては自由の体現者だった。トラック運転手をやりながら、フラッと与論島に旅に出て、空港のロビーの外でそのまま眠ったりした話をぼくたちは憧れながら聞いていた。
39年経って改めて話を聞いていると、O君の生活は、2か月でトラック会社を辞め、また別のトラック会社に勤め、半年でまた辞めてペンキ屋になったりして、というような暮らしをしながら、失業中に与論島に行っていたらしい。トラック運転手でお金を稼いだら、与論島に行って遊んで帰ってくるというのは、ぼくの勝手な誤解だったようだ。O君は、仕事と生活の確立という面で悪戦苦闘していたらしい。
「ペンキ職人になろうとして大阪に行った」
という話も「へえ、そんなことがあったんですか」と言いながら、家の裏にあったアパートで「大阪に行く」という話を聞かされたことが蘇ってきた。
「仕事が続かなくってね」と笑ったO君は、昔と変わらないままだった。当時も仕事を辞めても、悲壮感は感じなかった。「行き当たりばったり」と言って笑う姿はやっぱり野太い。この野太さが、自由に生きているように見えた原因だろうかと考えた。ぼくの同級生たちは、生活と仕事の厳しさをまだ体験していない中で、O君から伝わってくる「自由な生き方」に心惹かれていた。

大阪に行って「日本一の米屋になる」と言っていたK君に、20代半ばになってから、椎名誠の小説の中にぼくたちの高校生の頃とそっくりの世界があると言って『哀愁の街に霧が降るのだ』という本を紹介したことがある。椎名誠の世界には、O君が息づいていた。みんなの前でK君に椎名誠の話をすると、この本の名前が出てこないで、『わしらは怪しい探検隊』という本の名前を思い出して、ガスボンベキャンプファイヤーのことを披露した。K君は椎名誠を紹介するとぼく以上にたくさんの本を読んだり、『寅さん』がいいというと、ぼく以上にはまって寅さん映画の全作品を見たりしてきた。北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』を彼女に勧められて、授業中必死に読んで感想を話したんだということを語ってくれた。

O君は「仕事だけは一生懸命にした」と言っていたが、今は神奈川県で土木関係の社長をしている。人と人との交流とハートを大切にして生きてきた人だ。与論島で知り合った人との関わりで人生がいい方向に変わっていったという話も聞いた。巡り合わせで、運もあって仕事を引き継いで会社の社長にもなったと言っていたが、人との人間関係を大切にしてきたことが今に繋がっているのかも知れない。

『時には昔の話を』(加藤登紀子 作詞作曲)という歌がある。この歌のような生活をしていた。ぼくの家は、毎日が合宿にようだった。朝まで騒いだこともあったが、色んなことを話し合っていた。1日の終わりは、いつも寝る前の会話だった。
ぼくは、ベッドの下に隠していた日記を全部読まれて、からかわれ、片思いの恋も笑いのネタにされていた。
「みかんをくれましたね」
O君は、日記の一部を覚えていて、『チキチキマシン猛レース』の犬ケンケンのように口に拳を当ててよく笑った。

39年間経っても、みんなほとんど変わっていない。いろいろな思い出が出てきて大笑いしているうちに予定の時間はあっという間に来てしまった。
「10時になりましたのでこれで1次会はお開きです。ただちにこの場所で2次会をします」
そう宣言して、懐かしい友人たちは、帰って行った。
残った数人は、午前1時頃まで話し込んでから妹のアパートに移動した。さらに話をするために、そして眠るために。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

出来事

Posted by 東芝 弘明