社会科は過去の問題を静的に学ぶもの?

雑感

夜、議員と議会モニターとの懇談会が行われた。これは初めての試みだった。10人のモニターの方が出席し、議員全員が向きあって話し合った。全てのモニターの方に発言していただいた。
この懇談会については、別の機会にもう少し書いてみたい。

会議が終わって、話をしていた時に、社会科の学習に関わって話をした。
多くの子どもたちは、政治や社会の問題に対して、自分の考えが及ばないことが多い。考えたこともないという人が多い。
なぜ、そういうことになっているのだろうか。
平成29年3月31日に公表された学習指導要領の中学校の社会科について引用してみよう。

第1 目 標

 社会的な見方・考え方を働かせ,課題を追究したり解決したりする活動を通して,広い視野に立ち,グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の形成者に必要な公民としての資質・能力の基礎を次のとおり育成することを目指す。

(1) 我が国の国土と歴史,現代の政治,経済,国際関係等に関して理解するとともに,調査や諸資料から様々な情報を効果的に調べまとめる技能を身に付けるようにする。
(2) 社会的事象の意味や意義,特色や相互の関連を多面的・多角的に考察したり,社会に見られる課題の解決に向けて選択・判断したりする力,思考・判断したことを説明したり,それらを基に議論したりする力を養う。
(3) 社会的事象について,よりよい社会の実現を視野に課題を主体的に解決しようとする態度を養うとともに,多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される我が国の国土や歴史に対する愛情,国民主権を担う公民として,自国を愛し,その平和と繁栄を図ることや,他国や他国の文化を尊重することの大切さについての自覚などを深める。

社会科は、日本史、世界史、地理、現代社会、経済、政治に仕組み、憲法なども守備範囲にし、政治や社会のことについて学ぶ内容を持っている。
「日本の社会科は、過去の問題を扱っていて、毎日起こっている社会の問題について、学校の中で学ぶという機会がない。生きた社会問題と学校の学びが切り離されている」
こう発言した。この認識の根底には、日本の社会科は過去の問題を静的に学ぶものではないか、という疑問がある。このぼくの発言は、今も妥当性があるだろうか。新しい学習指導要領は、日々生起している社会問題も学習の対象にしているだろうか。もう随分昔のことになるが、担任の先生の引率で、中学校の生徒が本会議を傍聴したことがあった。当時の教育長は、引率した先生に対して、「議会傍聴は中学生にとっては応用問題すぎるので望ましくない」という態度を示した。これはもう過去のことなんだろうか。

引用した新しい中学校の学習指導要領の社会科の冒頭部分を読めば、政治や社会の問題に対し、自由にものを考えること積極的に推進しているように見える。しかし、実際にそうなっていくのだろうか。森友問題や加計問題について、北朝鮮のミサイル問題や南北朝鮮の首脳会談、米朝首脳会談の動きに対して、学校でこれを学習教材として学ぶようになるのだろうか。

現在進行形の政治・経済・社会の問題というのは、当然のことだが全容が明らかにならない。日々報道される新しい事実によって、次第に全容が明らかになる。国会のやり取りは、追及する野党、逃れようとする安倍総理という関係の中で、なかなか事実が明らかにならない。人口減少と地域社会の衰退などという社会が抱えている深刻な課題は、議論をしても答えが簡単には見いだせない。一つの原因は、全ての物事を明らかにする情報が全部揃っていないからだ。
憲法学習は、憲法制定時の歴史を学ぶものではない。生きた現実の社会の中に憲法がどう生きているのか。どう生かしていくべきなのか、ということを学ぶべきものだ。
現在進行形の学習では、答えが出なくてもいい、教師が一定の方向に生徒を導くことが最終の目標でなくてもいい、大事なのは、現代に生きる人間として、自由にものを考え、答えを見いだそうとして一緒に考えればいいということだ。この姿勢を学校教育として認めるかどうか。これは、教え込む教育からともに学ぶ教育への転換になるだろう。
こういう学びにしないと、社会科は過去の問題を扱うものにしかならない。このような学びが学校の中で自由に組織されたら、社会の中で生きる人間を育てる力になるだろう。こういう方向に日本の教育は向かっているのだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明