娘、笠田小学校を卒業する

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笠田小学校の卒業式が、笠田高校をお借りして挙行された。
懐かしい母校に久しぶりに行くことになった。
娘は、インフルエンザで3日間、自宅で休んでいたので、5日ぶりの学校だった。妻が仕事の関係で卒業式に出席できなかったので、おばあちゃんに出てもらうことになった。
朝、3人で車に乗って笠田高校の正門に車を乗り入れた。
昨日は雪が降ったので、受付で名前を書いていると手が冷たくなった。
「寒いですね」
これが、朝の挨拶となった。
笠田高校の正門を入った右手の細長い部屋が、来賓の控え室だった。めずらしくぼくが一番乗りだった。
集まった人々と東日本の巨大地震の被害の話や福島原発の事故の話になった。
ぼくにとっては、PTA会長としての最後の卒業式だ。
PTA会長としての挨拶をしなければならない。
問題意識は、ただ1つ。如何にして泣かない挨拶ができるか。
6年前の聖心幼稚園の卒園式では、泣いてしまって、まともな挨拶ができなかった。その時の教訓は、ぼくの胸の中にある。
泣かなくてもいい話をするために、涙腺に接近していくような話を絶対的に避ける。──これが昨年秋から考えていたことだった。
感謝の言葉、子どもたちとの思い出に触れるような言葉、中学校に行ってがんばれというような励ましの言葉、こういうものを一切避けないと、話は暗礁に乗り上げてしまう。
なんてたって、わが娘が卒業生の一人にいるのだ。話の中で娘との思い出や娘の同級生の子どもたちの顔が浮かんでくるような話をするのは、極めて危険だ。
最悪の場合、聖心幼稚園の卒園式と同じことがおこる。
危険には絶対に近づかない。これが今回の話の鉄則だった。
乾いた話をしつつ、それでも卒業生の心に残る話をしたいということを考えていた。
昨年の秋から話をするテーマは決めてあり、そのために図書館からも本を借りて資料を集めていた。
そういう考えのもとで話したのが、次のような挨拶だった。

49人の卒業生のみなさん。ご卒業おめでとうございます。
PTA会長の東芝弘明です。みなさんにお祝いの言葉を贈ります。
3月11日に東日本で巨大な地震がありました。多くの方が亡くなりました。東日本は遠く離れていますが、私たちにもできることはあります。私たちは何かをしたいと思っています。私は、人々の力になることが、人間の生き方として大事だと思っています。
さて、みなさんの思い出の中には、あの大きな樟の姿があると思います。
少し心残りですが、思い出が詰まった校舎は、新しくなります。変わらないのは、校歌と樟です。
笠田小学校の校歌を、一生の宝物として大事にしてほしいと思っています。
この校歌は、和歌山県の出身の作家だった佐藤春夫さんが作詞したものです。佐藤さんは、和歌山県が生んだ最も有名な作家です。
歌が誕生したのは、今からちょうど60年前の3月のことでした。
私は、最初、この心にしみる校歌を作るために、佐藤春夫さんは、笠田に来たのではないか、と思っていました。笠田に来なかったら、この素晴らしい校歌はできなかったのではないかと思ったのです。
いろいろ調べて見ると、事実が見えてきました。
60年前の校長先生は、岡田嘉一郎さんという笠田中の方でした。岡田先生はすでに亡くなっています。私は、家族の方に問い合わせてみました。
岡田先生は、電車や汽車を乗り継いで東京まで行き、洋風のおしゃれな建物だった佐藤さんのお宅を訪ね、校歌を作ってほしいと頼みました。和歌山からお土産をもっていったのに、列車の網棚にのせたたま持って降りるのを忘れて、佐藤さんには渡せなかったこともわかりました。
佐藤春夫さんは、樟を自分の目では見ていません。笠田には来なかったんです。では、どうして、こんなに素晴らしい歌詞を書けたのでしょうか。
答えは歌詞の中にありました。
2番の最後は「まごころのこら集うなり」となっています。実は、この「まごころ」という言葉は、笠田小学校がずっと大事にしていた言葉だったのです。岡田先生は、おそらく佐藤さんに、この言葉を校歌に入れてくださいと頼んだと思っています。
校歌は、樟とまちの人々のこと、樟と子どもたちのことだけを歌っています。私は、岡田先生と佐藤さんが、この歌を一緒に作ったのだと思っています。
60年前の3月1日、佐藤さんから手紙が届きました。手紙の中には、歌詞が入っていました。この日、ただちに笠田小学校はこの歌詞を校歌として決定しています。
樟と校歌は笠田小学校の宝物です。これからもこの歌が、思い出と一緒にみんなの胸の中に残りますように。
さて、保護者のみなさん。ご卒業おめでとうございます。私たちはこの6年間、子どもたちと一緒に歩いてきました。小さかった子どもたちは、自分の力で羽ばたけるように成長しました。
先生方、ほんとうにありがとうございました。
ご来賓のみなさん、ご臨席、まことにありがとうございます。
これでPTAを代表しての挨拶といたします。

話は、順調に進んでいった。
しかし。
泣き虫のぼくは、やはり涙腺に最接近してしまった。
「私たちはこの6年間、子どもたちと一緒に歩いてきました。小さかった子どもたちは、自分の力で羽ばたけるように成長しました」
第一接近はこの下りだった。やばいと思った。
そして。
「先生方、ほんとうにありがとうございました」
この下りをしゃべろうと思って、「先生方」と言ったところで、感情がこみ上げてきた。言葉が出ない。言葉を出すと涙声になるどころか、泣いてしまう。
しばらく言葉が出せないで止まってしまった。
波は3回ぐらい押し寄せた。
「先生方、本当にありがとうございました。今日は泣かないと決めて話を作ってきました。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
付け加えた言葉は、詰まってしまった言い訳だった。
教室での先生との別れは、先生による作文の朗読で締めくくられた。K先生には、子どもたち1人1人から花が贈られた。さらにk先生とS先生には、花束が贈られた。
下級生と先生方が両サイドに分かれて作られた道を卒業生と保護者が歩いていく。拍手で送られる。そこにはさわやかな笑顔があふれていた。
正門前で記念写真がたくさん撮られた。
「友だちが一番大切」
時代がどんなに流れても、この思いは全く変わらない。
自宅に戻ってから娘がぼくに言った。
「おとうの話が一番しょうもなかった。激励の言葉とか未来の話とかメッセージとかをくれるのに、おとうだけが過去の話をしてた。何にも残らんやんか。議員さんの話の『私も笠田小学校の卒業生です』という話と教育委員会の『基礎・基本が大事』という話は良かった」
昨年の感想は「おとうの話、長すぎ」だった。
娘にほめてもらえる話は、ついぞできない。


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Posted by 東芝 弘明