丘の上の光

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夜、県主催の「共育フォーラム」という名のシンポジウムがあった。
学校と保護者、地域の連携で子育ての共育を実現しようということを提起するものだった。
この考え方は、杉並区立和田中学校の前校長である藤原和博氏が取り組んだ地域本部を学校の中につくり、図書館の改善や庭の整備をおこなったことを和歌山県版に作り直したものだった。和歌山県は、これを地域共育コミュニティーとネーミングしている。
和田中学校は、この地域本部の取り組みをかなり限定的なものとして取り組んだようだ。しかし、和歌山県の地域共育コミュニティーは、学校と地域、保護者の関係を大きく変えるものとして位置づけているように見える。
このような取り組みは、もっと限定的な意味をもったものとして取り組む方がいい。教師も忙しい、親も忙しい、地域も忙しいという中で、ネットワークづくりを行えばうまく行くというような、「丘の上の光」はない。
地域共育コミュニティーをつくり学校と保護者、地域の新しい関係を構築するというものではなくて、学校のグラウンドを芝生化するとか、図書館を改善するとか、校庭の庭をきれいにするなどというような具体的な目的をもって、地域本部を学校の中につくり、その活動を通じて新しい関係を育てていくという方がいい。つまり、一般論から入るのではなく、具体的に改善したい課題があり、そこにマンパワーを生かすということだ。
実際、このような方法で学校の図書室の改善を図れたらいいなと思っている。
県のパンフレットには、「課題や願いを共に話し合う」→「解決に向けて企画する」→「提案する」→「実行する」と書いている。このやり方で言えば、まず何らかの組織をつくって話しあい、企画し、どこかに提案し、実行するということになる。大事なのはこういうやり方をひっくり返すことだ。
まず「図書室の改善がしたい」という5人程度の人間が集まり、「本の整理」などを始め、試行錯誤をくり返しながら図書室を改善する。このことを実現するために、学校の中に地域本部を作ればいい。つまり、「図書館を改善しよう」という人さえ発見できれば、明日からでも取り組みを始めることができる。
県のパンフでは、地域教育コーディネーターの果たす役割について書いてあるが、最初から学校と地域、保護者の間に立ってコーディネーターを買って出る人を探すのはむつかしい。
そんな大それたものではなく、5人の図書室を作りかえたいという人に改善をおまかせして、取り組んでいただき、その取り組みの中で賛同してくれる人を増やすということでいい。
図書室が改善されれば、子どもと大人の交流は自然に始まっていく。
このような組織が、中学校単位で作られても小学校と中学校をカバーすることにはならない。小学校にも地域本部があり、中学校にも地域本部があってはじめて、これらの組織は機能する。
家庭における子どもと親の関係で心配なのは、中学校に行きだしてからの親子の関係だ。クラブ活動と学習塾がよいが始まると、この2つのことによって親子の関係が自由に結べなくなる。一家団欒の夕食が奪われ、塾に通う途中の車の中でパンをかじるというような生活になる可能性もある。
ぼくの知っている人の子は、古佐田が丘中学校に行き、塾にも行ってるので、帰宅が週に2回か3回、10時になってしまう。
「お父さん、疲れた」
ある日この子は、父親に向かってこう言った。
「ドキッとしたで。ほんまに」──これがその父親の感想だった。
大の大人でも残業が10時まで続き、それが週3日もあるという生活をしていると、かなり疲れてくるだろう。
「どこの中学校に行くのも自由ではないか」
という意見がある。殺し文句は「自由」。「自由な選択を保障する」──いい響きだ。
自由な選択は、しかし、自由な選択をしているかのように見えているだけで、受験用の学力が不足している人に自由などない。高校受験で自由な選択肢を行使できる人は、ほんの一握りではないだろうか。
今年の1月、県のPTA指導者研修に参加したとき、「子どもをクラブと塾に行かせているので、わが家の夕食は9時から始める。9時にならないと一家の団らんを確保できない」という発言をした男の方がいた。家庭のこういう現実が横たわっている中で、地域の教育力の低下を嘆いても始まらない。
こういう現実を見ないで、連携を強める努力をすれば、オーバーワークが生まれてしまう。
やっぱり国連が日本の教育について指摘したように、公教育+学習塾というシステムがなければ、希望どおりの進学を実現できないという現実がおかしいのだ。塾は、公教育の補完的な役割を担ったり、学校よりも進んだ学習を保障することによって、競争の中を優位に生きる条件づくりを担っている。公教育の目的を達成するためには、塾が必要だという、日本の現実を何とかしなければ、子どもを生き生きと育てることはむつかしい。
こんな風に書くと、いや今の現実の中でも伸び伸び育っている子どももいるよ。個人差が大きいのではないの?という意見が聞こえてくる。確かにそういうことも言える。しかし、子どもをめぐる環境、条件として客観的にこのような仕組みが出来上がっていることを問題にしているのだ。
個人の努力によって、さまざまな矛盾を克服することもあるだろう。しかし、子どもたちのおかれている客観的な条件として、今の仕組みの中には、子どもたちを忙しさに駆り立てるものが横たわっている。ぼくはこういう要素を取り除くことが、大事なのではないかといいたいのだ。普通の人が普通に暮らして幸せになれる仕組みを作らないと、子どもの幸せはないと思っているのだ。
過度の競争教育によって、人間の発達が疎外されているという国連の指摘は鋭いし重い。
教育をとりまいている環境を改善しないと、「丘の上の光」は見つからない。


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Posted by 東芝 弘明