対立物の統一

雑感,哲学

弁証法の核心は、対立物の統一にある。対立物の統一とは、1つのものの中にある相反する2つの側面のことである。すべての事物は、性質の異なる2つの側面を持ちながら成り立っている。たとえば、磁石のNとS。正の電気の性質をもつ陽子と負の電気の性質をもつ電子によって成り立っている原子。光の粒子としての性格と波としての性格、力学の作用と反作用、運動エネルギーと位置エネルギーの関係、生物の同化と異化、細胞の生成と廃棄、人間社会でいえば、資本主義社会における資本家と労働者、商品の使用価値と価値などなど。
ぼくの感想で言えば、具体的な事物の具体的な姿を通じて対立物の統一がなされているので、それぞれの固有の事物の中で対立物がどのような関係を形成しているのかは、具体的な事物の性質によって違ってくる。対立物が統一されているが、その対立物がたえず相互の転化しあっているもの、お互いが不可分に補いあっているもの、対立しながら統一しているもの、相互に浸透しあっているものなどなどの状態がある。事物の発展は、1つのものの中にある相反する2つの側面が対立しあっていることによって起こるということだ。たとえば、水に熱エネルギーを加えることによって分子の運動が激しくなり液体である水は、水蒸気になり気体となって空気中に出ていくが、これは水の分子の運動エネルギーの多いか少ないかによって、液体になるのか気体になるのかが決まる。氷という固体になるかどうかも水の分子の運動量によって決まる。固体になる凝固点、液体になる融点、気体になる沸点は、物質によってそれぞれ違う。固体、液体、気体という3つの状態になるのは、すべてその物質の分子の運動によって測られる。熱エネルギーを加えることによって、分子の運動に変化が起こるが、その物質の状態変化を引きおこしたのは、分子の運動にあったということだ。
すべての物質は、他の物質によってさまざまな影響を受けるという点では、相互に反映しあい複雑に絡み合っているが、物質に変化や発展を引きおこすのは、その物質がもつ内部の運動によるということだ。沸点のかなり高い金属物質にマッチをすって火を近づけても溶融しないのは、変化を引きおこす分子の運動が起こらなかったからだ。

すべての事物は、何らかの対立物の統一という状態にあるし、対立物の統一という状態は、物質が階層的に成り立っているそれぞれの状態のなかで幾重にも存在する。人間は、事物が具体的にどのような形で対立物が統一された状態になるのかを探求してきた。たとえば、原子の構造を明らかにするには、2200年以上の年月が必要だった。科学の発展と発達によって、物質の運動形態や法則を明らかにするスピードは上がっていると思う。ただし、言いたいのは、事物が具体的にどういう形で対立物の統一と言う状態にあるのかを明らかにするためには、徹底的に事物の性質を探求する中でしか見いだせないということだ。事物が対立物の統一の状態にあることを知ったから、すべての事物が対立物の統一という状態にあることが分かるということには決してならない。
弁証法の解説本を読んでいると、対立物の統一として事物をとらえるということを出発において、あれも、これも、それも対立物の統一の状態にあるというような議論をしている場合がある。そういうものを読むと笑いたくなることが多い。対立物の統一という観点でとらえ直すというような言説は、笑止千万な考え方だと思っている。そういう作業は、弁証法でも何でもなく、まさに詭弁、哲学的には観念論だと思われる。

弁証法の根本法則である対立物の統一という法則は、具体的事物の具体的な研究、場合によっては何世代にもわたる研究によって明らかにできるかどうかというものであり、この法則を知ったら、悟りを開いたかのように対立物の統一が見えるというものでは決してない。

すべての事物は、対立物の統一という関係のもとにある。というのは、ものの見方、考え方の基礎になるものであって、それは単に「導きの糸」として役に立つにすぎない。弁証法的なものの見方考え方を活用して、事物の現象と本質に肉薄し、事物の姿を深くとらえるための科学的接近方法は、対立物の統一というところから接近するという方法では明らかにならない。大切なのは、事物を連関と連鎖の中でとらえる努力をすること、事物を生成と発展、消滅の過程の中でとらえるところにある。事物を徹底的に探究して行くと、固定した境界線がない問題にも直面する。こういう事実にぶつかったときには、事物のは固定した境界線がないことを思い起こして、柔軟にとらえ研究を前に進めればいい。
この探求の出発において、事物をありのままにとらえることの重要性について書いた。現存するものの肯定的理解という観点がきわめて大切だというものだ。
なぜこの観点が大事なのかについては、人間の事物の認識の仕方について分け入って理解しておく必要がある。人間の認識論は、人間の意識とは何か、認識とは何かを言語や脳の働きも含めて理解しないと深まらない。これを書き出すとかなり膨大なものになる。日を改めなければならない。


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Posted by 東芝 弘明