批判的精神こそ

学習

8時から「第40回かつらぎ町体育まつり」の開会式に出席した。40年目の体育まつり。このまつりは、各地域の会場に分かれてソフトボール(一般男子、少女)、軟式野球(一般男子、学童)、サッカー(小学生、一般)、バレーボール(婦人)、剣道、ソフトバレーボール、少林寺拳法、ソフトテニス(一般、ジュニア)、ハイキング、硬式野球(中学生)、グラウンドゴルフ、空手道、第30回かつらぎ町老人スポーツ大会が行われるというものだ。開会式は、10月10日で競技も10日に集中しているが、10月5日から「老人スポーツ大会」が実施され、最終は16日に「空手道」が実施されるというものになっている。
開会式では、山本町長から表彰状が渡された。これが、山本町長の最後の公式行事となった。
体育協会が軸になって、各種のスポーツ団体や少年団の一大イベントとなる。笠田地域の宝来山神社の秋まつりという大きなイベントと並行して行われているので、かなりの人が、体育まつりにも秋まつりにも参加していることだろう。
秋は、行事が目白押しになっている。この季節は、もっともいい季節なのかも知れない。春は、新学期なので、子どもたちも学校に馴染む必要もあるので落ち着かないだろう。
秋のこういう行事のことを考えると、前教育長が導入した2学期制は、教職員に大きな負担になるのではないだろうか。特に中学校は、運動会の後期末試験が行われ、この期末試験を踏まえて通知表の作成があり、それが終わるとかつらぎ町の各種の秋の行事へと突入するという形になる。
中学校の先生方は、通知表をつけてしまわないと、なかなか地域の行事にも参加できないのではないだろうか。
中学生は、中間テストと期末テストによって、通知表が作成される。3学期制に戻した方が、受験勉強などの流れを作りやすいように思う。夏休みの前に1学期が終了し、9月から2学期が始まり、正月明けから3学期が始まる。3学期は期間が短いので組み立てにくいという話もあるが、3年生にとっては、いよいよ入試に向けた追い込みということなので、短いとか長いとかはあんまり関係がない。
1年生と2年生にとっても、実際は学期ごとにブツブツに切れずに続いているので、3学期は1年の総仕上げということで、いいのではないだろうか。
前に一般質問で2学期制の見直しを求めて質問した。質問では、3学期制と2学期制のメリットとデメリットを検証するといいながら、中学校ではなし崩し的に2学期制を導入し、導入以後は全く検証が行われていないことを指摘した。
研究は、導入のために行われただけであって、導入することが目的だったといわざるをえない。──これが質問の中心点だったと記憶している。
「意見を聞き見直したい」というのが教育委員会の態度だったが、見直しの作業を本当に広く行ったのかどうか、これは極めて疑わしい。
かつらぎ町は、伊都郡と橋本市でどこよりも早く2学期制の導入に踏み切った。このような括弧付きの改革が行われると、伊都橋本に2学期制導入の流れが起こり、一つのブームのような様相を呈した。このブームは、和歌山県内のいくつかの地域にも飛び火したようだが、大きな流れにはならなかった。
教育改革という名前の、にせ物が徘徊している。
教育委員会は、トップダウンのような形で改革を振りかざしている。
しかし、そこに子どもたちを中心にした視点はあるのか。
子どもたちが、結局は置き去りになっているのではないか。
高校の学区制の撤廃も中高一貫校、小中一貫校も本当に子どもたちを中心に考えられたものなのだろうか。教育の主人公は、親でもなければ、教育委員会でもない。あえていえば教師でもない。子どもの教育権、発達する権利を保障するために教育は存在している。
子どもの成長を保障するためには、子どもの権利を守る教育が必要である。子どもの権利を守るためには、教師の権利を最大限に保障する必要がある。教師の働く環境に自由が必要なのは、子どもに成長する条件を保障する必要があるからだ。教える側に自由がなければ、学問における自由な精神は育たない。
学問は、批判的な精神を軸に発展してきた。「なにものによっても威圧されることなく、批判的であり革命的である」という精神こそが、学問の精神である。
100年以上アインシュタインの相対性理論は覆らなかったが、光よりも速い物質としてニュートリノの存在が実験で観測されたのだから、アインシュタインの相対性原理についても、批判的な検討が必要になっている。事実の前に立つと学問は、その形態を変えなければならない。
自然科学も社会科学もそれは同じ。
日の丸や君が代に対し、ぼくが批判的なのは、日の丸と君が代の歴史を研究すると日本の侵略戦争によって汚された歴史が浮き彫りになって来るからだ。「日本人なのだから日の丸に対して、批判的なのはおかしい」というのは、歴史に対する見方としては、大きな問題を抱えている。「なにものによっても威圧されることなく」事実を見ることが、学問なのだ。タブーこそは、学問の進歩をはばむ障害物だろう。
自分たちの目に見えることが、必ずしも真実を示していないことは、ものすごく多い。当たり前のことのように感じていることが、実は逆さまだったことはたくさんある。学ぶことの一つの目的は、現象を形成している事物の中にあるその現象を成り立たせている本質を見抜くことにある。
社会科学の場合、真実が経済的政治的利害によって隠されていることも多い。証明抜きに語られていることに、本当に真実があるかどうか。それを見抜く目を育てる必要がある。
一つの例を書いておこう。
自民党などは、北方領土を返せという。北方領土は、歯舞・色丹・国後・択捉の4島のことだ。しかし、第2次世界大戦が終わるまで、日本の領土は、千島列島の端っこまであった。千島列島は、日本が戦争によってぶんどった島ではない。千島と樺太を日本とロシアは、平和的な話し合いで交換した。
なのに、なぜ自民党や歴代政府は、日本の領土であった千島を返せといわないで、歯舞・色丹・国後・択捉の4島だけを返せというのだろうか。歴史の事実を歪めて変な返し方を求めても、交渉がうまく行かないのは明らかだ。自民党や日本政府の主張には、まったく歴史的な根拠がない。
社会科学の分野は、自然科学の分野以上にうそや誤魔化しが多いだろう。自然科学の場合、比較に過ぎないが、物質的には、まだ単純な物質の運動を研究しているので、条件を統一して実験することが可能であるケースも多い。しかし、政治や社会の問題になると生身の人間の生死にも関わるので、なかなか実験めいたことはできない。うそをついても証明が難しいので、かなりのでたらめが通ってしまう土壌がある。
小学校にしても中学校にしても高校、大学にしても、学問には、批判的精神が必要だ。うそや誤魔化しを見抜いて、真実に接近するものの見方考え方を小学校の時代から身につけて行くためには、批判的な精神の育成を大事にしなければならない。
日の丸、君が代の歴史を学び、物事を考えることが、本当の日本の姿を知り、本当の愛国心を育てる教育になる。
日本人は、侵略戦争を反省し、戦争放棄をうたった憲法を手に入れた。歴史の反省に立って、戦後新しい日本が始まった。戦後の日本人の誇りは、憲法9条や憲法25条にある。基本的人権の永久不可侵をうたい、法の下に平等という精神をもって、相互に尊重しあい、戦争を放棄する日本人のあり方は、世界に胸をはって堂々と交流できる人間を作る。
日本国憲法にいたる日本の歴史。日本国憲法にもとづく国造り。ここに日本人の誇りと愛国心がある。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

学習

Posted by 東芝 弘明