『賢い人の秘密』は面白かった
昨日、『賢い人の秘密』を読了した。この本は、本屋さんでたまたま見かけたもので、『本当の賢さとはなにか』という対談本の横に並べられていたものだった。賢いという言葉につられて買った本が、『賢い人の秘密』だった。この本の作者はクレイグ・アダムス氏。訳者は池田真弥子さん。
アリストテレスの論理学をベースに、作者が学んだことを自由に展開している本だった。アリストテレスの論理学の解説本ではない。おそらくアリストテレスが書いた本を読んだだけでは、多くの展開があり入り組んでもいるので、深めることのできないだろうと思われる点を、独自の視点でまとめるとともに、アリストテレス以後の科学と哲学の発展を踏まえた点もあるので、ある意味では、アリストテレスが立っていた地点を超えている部分もあると思われる本だった。
本当に賢くなるためには、知識を学ぶよりも思考法を学ぶことが重要だという視点は大事だなと思った。論理学の基礎を学べば、人は、分析の仕方や物事の本質の見極め方が身につく。
全ての人間は、毎日物事を考えるときに多くの場合は、演繹的に考えている。
たとえば、
「ロシアとウクライナが戦争になった。ロシアが突然ウクライナに侵攻した。日本も防衛力を高めなければ、外国が突然攻めてくる。やばい」
こう考えている人が多いだろう。ロシアがウクライナに突然攻めてきた。日本も中国や北朝鮮に突然攻められるかも知れない。備えあれば憂いなし。こういう論理の組み立ては演繹法だ。端的に言えば、ロシアがウクライナに攻めたから、したがって日本も攻められる──こういう論理で成り立っている。
この演繹法が正しいのかどうか。見極めるためには前提を疑う必要がある。なぜロシアはウクライナに突然軍事侵攻したのか。ここを明らかにしないと、日本が外国から攻められるかどうかは確認できない。ぼくが読んだこの本は、演繹法が使われている場合(無自覚なケースが多い)は、その論理の「前提になっている問題を疑え」と書いていた。前提の問題を見抜いて、そこに問いを立てて検証することが大事になる。前提には、あいまいで根拠がなかったり、自明のこととして隠され、検証されていなかったりすることが多い。
前提に根拠がなければ、論理は成り立たないし崩壊する。人が多用している演繹法の特徴を知っているのと知っていないのとでは、議論の深め方が違ってくる。その前提は果たして正しいのか。これを指摘することによって、思い込んでいる人の考え方も深まっていく。
こういう話は、面白くないだろうか。
思考法を学ぶという点について、これをぼくなりに書くと、具体的な専門分野の知識を学べば、思考法もさらに発展するという関係にも注意を払う必要があるという点を付け加えたくなる。
思考法と専門分野の研究や知識は、相互に絡みあっている。つまり、これは、具体的な科学の進展によって、唯物論と弁証法はその形態を変えなければならないということを意味している。思考法は導きの糸であって、思考法によって事実の裁断が始まると、思考法は現実を読み解く障害物にさえなる。この点を忘れてはならない。ここが面白くもあり、奥が深いということでもある。
『賢い人の秘密』は、この作者による自由な展開のある本だった。この本を読んでも「アリストテレスはこう言った」とは言えない。そういう組み立てにはなっていない。ただし、帰納と演繹、類推と実体、意味、証拠については、かなりまとまった認識を得ることができる。ぼくにとっては、帰納と演繹との関係を深める力になった。大きな収穫があったので嬉しくなった。
『本当の賢さとはなにか』よりもはるかに内容の豊かな本だ。
本屋さんによる立ち読みというのは、ネット検索を超える力がある。そう思えた本との出会いだった。
前提を疑えですか。メディアが米国寄りで、ウクライナの反撃の側面ばかりを報道している。先の戦争で、日本が勝った勝ったという部分だけを報道したのと大差ないのでしょうか。少しでもロシア寄りの発言は、例えば鳩山元首相を宇宙人と評したり。では帰納的思考とはどんなものなのでしょうか。何かを取り上げて、それを証明する。それを続けて、漸く恒真となる、ということで良かったのか。わたくしには分かりにくいです。
ブログ本文が分かりにくいのではなく、わたくしが分かっていないということです、勿論。
度々誠に済みません。戦況についてはあくまで個人的私見。実状は分かりません。
帰納というのは、例えばAとBとの物質や事象について共通点を発見するということです。
これが科学の出発でした。比較して分類し、仲間に分ける。ここから始まりました。しかし、この帰納という方法は、全てを証明するという意味をもちません。帰納的な方法で共通点を確認し、それを積み重ね、これこそが法則だと位置付けても、説明できない物質や事象に出会ったら、共通点から導き出した法則では説明がつかないことになります。
科学が明らかにしてきた法則は、この帰納的な方法から逃れることはできません。
帰納を積み重ね、明らかになった法則を根拠にして、物質の性質や事象の本質を見抜くのが演繹です。
読んだ本は、人間が語っている論理は、帰納と演繹に縛られているということでした。たった2つを比較して共通点を発見したら、嬉しくなって一般化してしまう。もしくは、議論の前提になっている命題が間違っているのに、それが正しいと思い込んで、Aが正しいんだからBも正しいと思い込んで論理を展開するということが、盛んに行われているということです。
少ない経験からの一般化は、帰納の危うさをものがたり、根拠の曖昧な論理は、演繹的な危うさをものがたっているということです。
最近の政府の主張は、演繹的な誤りだらけです。
有難うございました。
アクセス数の激減が俺のせいかと思って、暫く様子を見ていたが一向に数が戻らんので迷惑かも知れぬのだがコメントを書こうと思う。
『賢い人の秘密』は面白かった。本屋に寄って本を漁るというのはいい事ですね。思わぬ本との出会いがあるのですから。此の本の中で知性とは「語彙力」を高める、という件があって成程と思いました。俺は辞典類を収集するのが好きで、中でも、福武国語辞典を愛用しており、読む本が無くなると此の福武国語辞典を読んでおる。いつか、才槌頭、という言葉を発見した時は嬉しかった。俺が嫌っている男の頭が此の才槌頭であったのだ。
今、俺の小説を校正して呉れる友人から、古書店で買ったというルカーチの『歴史と階級意識』という分厚い本を読んでいる。マルクスを解剖している本である。1000円した、と言うから1000円で引き取らせて呉れとお願いしたら、いいですよ、との事だったのでゆっくり読むつもりだ。今度アナーキストの大杉栄の本とマルクス研究者の河上肇の本と中江兆民の本を持って来て呉れると言うから楽しみだ。此れも面白かったら買い取らせてもらおうと思っている。
いやあ、本というものは実にいいものですね。こうやって、東芝さんに感化されて『賢い人の秘密』にも出会えたし。そういえば、去年の暮、紀伊国屋書店で本を漁っていると、筒井康隆の『敵』という本を見つけたので此れも読んでいる。俺は3冊程同時的に読んでいるのである。箸休めみたいにエッセー集も読んでいる。くだらんテレビを観る暇があったら本を読んでいる方が楽しい。
アリストテレスの主著『形而上学』がどうしても出て来ない。何処にいったのか、謎である。
同時に本を何冊も並行して読むということを、ぼくもいつもしています。途中で止まっている本も出てきますが(笑)。やっかいなのは議会です。議会に集中すると読んでいた本に戻らないようなことが起こります。問題意識が置き換わるほど、意識の中断が発生するので、この意識の中断がやっかいですね。
waoさんが書き込んでくれて、ぼくが反応するとアクセスが伸びてきました。コメント欄の効果ってあるのかな。
うううむ。
アクセスが伸びてきておるのかどうか、なんとも言えない数ですね。かつては100から200あった訳ですから。
俺が思うに、昨年の年末ふぐを食べに行って酔っぱらって書き込みをしてからアクセス数が激減した様に思うのですが。ですから俺のせいかな、と思って。
まあ、俺ほど東芝さんの所で自由にコメントを書いておる奴もいない訳で、下らんコントを書いたり、小説を書いたりと。ほんで、ご迷惑をお掛け致しておるのではないかと思う次第な訳です。
ま、世間の風当たりも気にせず、ご迷惑を覚悟で俺は開き直ってコメントを書こうと思っておるのです。東芝さん御免ね。ぶははははははははは。
笑い事では無い事は百も承知です。
また書いてくださいね。読むの好きですから。
有り難きお言葉で御座りまする。